明治後期以降の測量逸話

前穂高岳での滑落

陸地測量部の発足後、未踏の山岳地帯や離島の測量も本格化されましたが、測量技術者は非常な困難にも遭遇しました。三角点の選点の際は候補地点へいたる道筋さえ定かでなく、地元の猟師や案内人の協力を得ることもありました。少人数での行動や通信手段も十分ではなく、遭難事故も起こっています。これらは、ほとんど記録に残っていませんが、小説や紀行文のなかで、断片的に知ることができます。

1893年(明治26)8月、館潔彦(たて・きよひこ 1849~1927)陸地測量師が地元の猟師上条嘉門次の案内で一等三角点「穂高岳」の選点のため前穂高岳(当時は「穂高岳」と呼ばれた。現・松本市安曇)の頂上をきわめ下山の途中、頂上付近の岩場で足を滑らせ18メートルほど転落したのですが、奇跡的に助かりました。この数日後、イギリスの登山家で宣教師のウエストン(Walter Weston 1861~1940、1888年(明治21)来日)は前穂高岳へ登頂しています。ウエストンの著書には館の事故についてつぎのように述べられています。

A fortnight before, he and another hunter had been with a Government official (a surveyor in the War Department), who then succeeded in making the first ascent of the highest point. At difficult spot near the top the man slipped and was sent flying downwards for sixty feet, bumping from rock to rock with a violence that made his survival matter of marvel.
(interspace)
Before 1・30 we were on the highest pinnacle. Driven into a crack in the rock I found a small stake, which marked te visit of the War Office sureyor some weeks before. As I looked down the rocks, where Kamonji pointed out the line of his fall, it seemed incredible the man could have survived. The marvel was that the aforsaid stake did not mark the double event, and stand as a memorial of his destruction as well as a token of triumph.[Walter Weston:Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps. John Murrray, London 1896 p173、181]

「二週間前に、彼ともう一人の猟師が政府の官吏(陸軍省の測量技師)といっしょに登ったが、この役人が最高地点への最初の登頂に成功した。彼は頂上付近の難所で足を滑らせて、岩から岩へはげしくぶつかりながら、ほうり出されるように60フィートも墜落したが、奇跡的に命びろいをしたそうだ。(中略)そろそろ一時三十分というところ、山頂の尖塔(ピナクル)に達した。その岩の割れ目に、数週間前に陸軍省の測量技師が登頂を果たしたときに打ち込んだ小さな標柱が残っていた。嘉門次は技師が墜落した方角を指したが、その岩場を見ると命の助かったのが奇跡としか思えなかった。その標柱が二つの事件の記念碑、つまり彼の成功を証明すると同時に死を悼む墓標とならなかったのが不思議なくらいである。」[ウエストン著、青木枝朗訳:日本アルプスの登山と探検 岩波 1997 p181-182、191]

初期の点の記によれば館潔彦が「穂高岳」を選点したのは8月1日、その後8月14日には富山県の「金剛堂山」(富山県利賀村・八百町)を選点しています。一方、ウエストンは館の事故2週間後に島々谷にある風呂平の温泉で「負傷し、予後の静養にきている測量技師」に会っています。負傷静養中の館がこの時期に他地点の選点に出向くことができるか、という疑問があります。館潔彦の次男、館香緑(たて・こうろく 1878~没年不明)著の「父の想ひ出」(1956年の草稿、国土地理院蔵)によると事故後、富山の病院に入院しています。

甲斐駒ヶ岳での落雷

1896年(明治29)、一等三角点「甲駒ヶ岳」(長野県伊那市・山梨県白州町)の作業中、落雷により死亡事故がありました。初期の点の記によれば、この覘標(櫓)は1891年(明治24)に設置され、1895年(明治28)に修理されています。陸地測量部沿革誌の明治三十年のところには「客年河野測量師外數名甲駒ヶ岳一等三角點觀測中落雷ノ爲メ傷害ヲ受ケ其ノ他作業ニ關シ死傷スルモノ數名療養料及死傷手當ヲ下附セラル」とあります。[陸地測量部:陸地測量部沿革誌 陸地測量部 1922 p140]

木暮理太郎が甲斐駒の登山をした際の記録によれば、「測量の櫓は四本の柱がばらばらになって風に揺れながら霧の中に立っていた。左に廻ると小屋らしいものが目に入る、訝りながら近寄ると果たして小屋であった。(中略)重い口から語られた所に拠ると、一昨日櫓に落雷して二人の測量手が感電し、一人は即死一人は瀕死の重傷を負うたのを、昨日漸く麓へ運び下ろした、一人では予定通り仕事が捗(はかど)るまいと案じられる。ここで観測を開始したのは六年前であるが、今年蓼科山に一等三角点の覘標が建てられたので、回光信号を交換する必要から復(また)登山したのだということであった。」とあり、小暮の記録は武田久吉の紀行文にも見られます。[木暮理太郎:山の憶い出 木曽駒と甲斐駒(昭和3年作)平凡社 1999 上p528]、[武田久吉:明治の山旅 平凡社 1999 p87]

広島で陸地測量手、伐木で圧死

三角測量の際、視通を得るために支障となる樹木を伐採することが多々ありましたが、1896年(明治29)には広島県吉和村(現・廿日市市吉和)で陸地測量手が伐木中に倒木で圧死する事故がありました。陸地測量部沿革誌の明治二十九年のところには「陸地測量手小室虎夫 安藝國佐伯郡吉和村ニ於テ三等三角測量作業ニ際シ斫伐木ニ壓セラレ職ニ殉ス」とあります。[陸地測量部:陸地測量部沿革誌 陸地測量部 1922 p137]

この事故は新聞報道もあり、明治の新聞によく見られる雅文体で書かれています。「陸地測量手職務に斃(たお)る 目下安藝國廣島地方に於て測量に從事しつゝある陸軍参謀本部の陸地測量部班員なる測量手小室虎夫氏は去月九日午後三時三十分其擔當に属する三等測站觀測所に於伐木の爲め無残なる壓死を遂げたり(中略)禿頭山(とくとうざん)と稱する僻陬(へきそう)の深山にて老柏怪杉空を掩ひ晝尚暗き所なれば氏の三角測量に要する觀測の視線を妨害すべき樹木を伐て捨てんものと多勢の樵夫(きこり)を勵ましつつ(中略)本年八月十五日同班員と共に工夫數名を引率し前記の地に派遣せられ山彦の外に答ふる者もなき深山路(みやまじ)に明し暮して偏に職務に勵みたる甲斐もなく不測の兇變に罹りて尾上颪(おのえおろし)の落葉と共に斯(かく)は散失(ちりうせ)たるものなりと」、とあります。「尾上颪」(おのえおろし)は山の尾根から吹きおろす風のことです。[東京朝日新聞:陸地測量手職務に斃る 明治二十九年十二月三日 第三千六百十號 1896 p4]

陸地測量部玉井大尉、猿に襲われる

測量中に野生動物に襲われることは、たびたびあったようです。1898年(明治31)には広島県で測量官が猿に囲まれたという、つぎの新聞報道があります。「秋夜物語 陸地測量部の玉井大尉藝州權現山に於て猿の包圍攻撃に逢ひ草原に火を放(つけ)て終(つい)に免がるとは日本武尊(やまとたけのみこと)をアベコベに行く」、ヤマトタケルが地方の役人の罠(わな)にかかり草原で火に囲まれましたが、向かい火で向きを変え脱出した故事があります。この記事の「玉井大尉」は玉井清水歩兵大尉と思われます。[東京朝日新聞:秋夜物語 明治三十一年十月四日 第四千四百五號 1898 p3]

八重山諸島 鳩間島の三角点

1897年(明治30)頃、沖縄県の離島である八重山諸島の鳩間島での話です。初期の沖縄県離島の測量では住民のほうも大変な苦労があったようです。「新南島風土記」には、つぎのように述べられています。「中森にのぼると、西表島の景観が美しく眺められるが、民謡にうたわれた『美(かい)しゃ生(む)いたる丘(むり)ぬ蒲葵(くば)』は明治三十年ごろ測量にきた佐村某という測量技師が測量の邪魔になるということで切り倒させたために今はない。この時、部落の人たちは、この由緒ある蒲葵を守るために極力反対したというが、佐村某は『政府の命令だ』といってきかなかった。それでも誰一人蒲葵を切ろうとするものはいなかったところ、業をにやした佐村某は、みずから斧をふるって一刃入れたので、村人たちは泣く泣く切り倒したという。測量のために倒された昔の蒲葵のことは、今日では七十歳をこえるお年寄りしか知らないが....」 [新川明:新南島風土記 岩波書店 2005 p111-112(底本は「沖縄タイムス」1964~1965連載)]

この中森という場所には三等三角点「鳩間」(沖縄県竹富町鳩間)がありますが、1920年(大正9)に設置され、1985年(昭和60)に再設されています。蒲葵を切り倒した話は「明治三十年ころ」とありますから、これらの三角点の設置や観測に先行して撰点か、あるいは事前の調査をした時期と思われます。沖縄では1907年(明治40)に一等三角点が選点され、本格的な三角測量が開始されています。

登山と経緯儀

明治後期に牧師で登山家であったウェストン(Walter Weston 1861~1940)によって外国にも紹介された日本アルプスには多くの登山者が訪れはじめ、紀行文も書かれています。日本山岳会の創立者のひとり、名筆家としても知られる小島烏水(こじま・うすい 1873~1948)の作品「甲斐の白峯」には、つぎのように経緯儀が登場します。「日本の山嶽は水準測量に憑ることが出來ない事情があるから、多くは經緯儀、もしくは晴雨儀で測量するが故に、之を試みた人によって、高さが違う・・・(中略)後の登山者のために、登山用具を書き加へて置く、油紙、經緯儀、少量ブランデイ入の瓶・・・」[小島烏水:甲斐の白峯 「太陽」 第十巻 第三號 東京博文館 1904 p175]

のちほど、この記述だけでなく「甲斐の白峯」全体がウエストンの紀行文を翻訳、自分の紀行として発表したとされ、植物学者の武田久吉(たけだ・ひさよし 1883~1972 アーネスト・サトウ元駐日英国公使の子息)が1965年(昭和40)、日本山岳会創立六十周年記念講演会で痛烈な批評をしています。

武田によると「これは最近いろいろ研究してみると、小島氏自身が登ったのではなくて、ウエストンが登った記事を換骨奪胎して、こしらえた。(中略)小島君の方は、書いたものがおもしろく読まれればいいのだから、いろいろと脚色する。それで大分嘘が入っている。(中略)第一小島君が白峯へ経緯儀を持って行ったというが、何のために持って行って、どんなことをしたか聞いてみようじゃないかというので、聞いたところが、さすがに小島君、弱った。『あれは小説だよ』・・・僅かに身をかわした。(中略)のちの登山者のために持って行くものとして経緯儀が挙げてあるでしょう。経緯儀なんてそうざらにあるもんじゃないから、持って行けって言われても持っていけるもんじゃない。持って行っても使い途はわからないのだから。」と述べています。[武田久吉:山岳会創立前後 明治の山旅 平凡社 1999 p334] 

これに対し水野勉(みずの・つとむ 1930~2022、日本山岳会理事)は、つぎのように助言しています。「烏水が夢中になって山の美と登山の楽しさを伝えようとしたことを考慮にいれないと・・・(中略)ぼくは小島烏水を積極的に擁護する気はないが、『甲斐の白峰』事件はたいしたことではない。それによって烏水を強く非難するほどのことはない。たかが北岳登山のことではないか。」[小島烏水:アルピニストの手記 平凡社 1996 p303 (巻末解説 水野勉:日本近代登山の扇動者としての烏水)]

笈ヶ岳での経塚発掘

笈ヶ岳(おいずるがたけ)は、石川県白山市(旧・石川郡吉野谷村、石川、富山、岐阜の三県境にまたがる)にある標高1841メートルの山で、山頂には、三等三角点「笈岳」が設置されています。初期の点の記によると1906年(明治39)、吉村武雄陸地測量手によって撰定、造標、観測とも実施され、

点の記の備考欄には「一、本点ハ急峻ナル頂上ニアリ残雪及ビ降雨ノ際ハ上ル可カラズ 二、本点ハ笈岳ト称シ昔時 笈ヲ之ノ頂上ニ埋メタリト傳ヘ果セル哉 三十八年山林局ニ於テ三角點標建設ノ際 笈ヲ掘起シタリ 刀剣及甲冑環銭金製ノ佛像等ニシテ△△源平時代ノ惣(すべ)テ種類多キ處ナリ 三、山林三角點ハ本点ノ西約十米突ニアリ」(△は判読不明)とあります。

このことから1905年(明治38)農商務省山林局による測量の際、経塚が見つかったことがわかります。深田久弥の著作によれば、1905年(明治38)、参謀本部陸地測量部員が三角点を設けるため笈岳に登り、頂上で経筒などを発見したとあります。これは山林局が発見した遺物が翌年まで残存しており陸地測量部により再発見されたと解されます。[深田久弥:百名山以外の名山50 河出書房新社 1999 p254]

笈ヶ岳の周辺は泰澄(たいちょう 682~767、奈良時代の修験道の僧、越前国出身)が開いたとされる白山を中心とした修験道になっていました。出土した経筒の一つに室町時代の1518年、「永正十五」の年号が記されていました。これらの出土品は東京国立博物館で所蔵されています。

北海道海別岳での惨事

1917年(大正6)9月、北海道知床半島の一等三角点「海別岳」(うなべつだけ、現・北海道斜里町)での測量では天候が悪化し風雨強く遭難一歩手前のできごとがありました。つぎのような当時の記録があります。「吾々は愈々死を期して其處に一本の旗(信號用の)を樹て之れ迄での測量の經過を認(したた)めた手簿と、一同の遺書を手記した手帳を、他の一本の旗に包んで信號旗の基に結びつけて、只管(ひたすら)死を待ったのである。」[参謀本部技手 吉村武雄: 測量技師等十名が海別山の大遭難 武侠世界 増刷 山嶽踏破號 大正十一年七月発行 武侠世界社 1922 p197]

結局、翌日天候は回復し全員無事であったとのことです。少年向きの冒険談を掲載した雑誌であったため、多少誇張した表現もありますが、当時の苦労が偲ばれます。海別岳(標高1419.4メートル)は斜里町にありますが、この三角点は1901年(明治34)に館潔彦陸地測量師により選点、標石は1903年(明治36)中村丈吉陸地測量手により埋定、観測は1906年(明治39)高橋文亮陸地測量師により行なわれています。また全国の一等三角測量は1913年(大正2)に終わっています。この事件が起こったのは1917年(大正6)のことですから海別岳周辺の二、三等三角測量のときのことと思われます。


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