琵琶湖疏水の工事
琵琶湖疏水は大津市から京都市へ琵琶湖の水を導く人工水路であり明治中期に構築されました。しかし計画は1801年(寛政13)頃からあったことが江戸時代の古図から察せられます。大津の尾花川から山上村に導き、如意ヶ岳(通称大文字山)を隧道(トンネル)で貫き、京都の鹿ケ谷から白川に達する水路です。この古図には「矢野維直」の署名が記されていますが、どのような人物か不明です。1841年(天保12)には京都壬生村の百姓、彦助らが尾花川から新羅山(三井寺の奥)、藤尾川、四宮、安祥寺、神明山麓、南禅寺、白川、鴨川にいたる主線と安祥寺から六地蔵までの分線の掘削を京都奉行所に願い出ましたが、実現はしませんでした。[寺尾宏二:京津間琵琶湖疏水計画の絵図三種の考証「古地図研究」日本地図資料協会 1990 245号 p2-12、246号 p2-7]、[浅見素石:よもやまばなし 琵琶湖疏水 サンライズ出版 2005 p74]
1862年(文久2)には豊後国岡藩主中川久昭(なかがわ・ひさあき 1820~1889)が大津・京都間の通船路を計画しましたが、認められませんでした。1863年(文久3)にも大津町七組の年寄らによる現在の疏水ルートに近い計画が京都奉行所に提出されました。さらに1872年(明治5)と翌年にも、それぞれ京都の吉本源之助、大津の渡辺伊助などが通船路を計画し京都府や滋賀県に請願しましたが、いずれも実現しませんでした。[京都教育史サークル:疏水を拓いた人びと かもがわ出版 1995 p131-132]
京都府立総合資料館(現・京都府立京都学・歴彩館)に保存されている富田屋(とんだや)文書「琵琶湖疏水絵図」は明治初期に作成されたようですが、現在の琵琶湖疏水とほぼ同ルートで取水口は現地点よりも北の茶ヶ崎となり、隧道で山科へ抜け、既存の河川を利用しつつ日ノ岡峠にいたり、ふたたび隧道で京都にでて、白川に注ぐ水路計画になっています。現在の琵琶湖疏水の計画時点での絵図とも考えられます。富田屋文書は幕末に新椹木通丸太町上ル高島町に居住し、請負大工を営む一方で、同町の町年寄を勤めていた富田屋に伝わった文書です。[富田屋文書「琵琶湖疏水絵図」京都府立総合資料館所蔵(資料番号:館古026-64)]
1881年(明治14)、京都府知事として着任した北垣國道(きたがき・くにみち 1836~1916)が東京遷都によって、衰退した京都を盛り上げようと琵琶湖疏水計画をとりあげました。北垣は但馬国出身で儒学者池田草庵(いけだ・そうあん 1813~1878)の私塾「青谿書院」(せいけいしょいん)で学んだ幕末の志士でした。1881年(明治14)には既に京都、大津間の高低測量が行われており、琵琶湖疏水路線の略図も描かれていました。この計画に対する政府の所管は農商務省であり、のちに内務省土木局に移りましたが、この際、お雇いオランダ人の土木技師デ・レイケ(Johannis de Rijke 1842~1913)は掘削に莫大な費用を要するため難色をしめしました。当初、農商務省に所属する南一郎平(みなみ・いちろべえ 1836~1919、大分県出身)が計画実施にあたりました。南は福島県で安積(あさか)疏水工事の経験がありましたが。農商務省から内務省に移り、一等技師の要職についたため専任できず、現地工事の土木技師には工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎(たなべ・さくろう 1861~1944)を、測量技師には開拓使(北海道開拓の行政機関)で経験が多い嶋田道生(しまだ・どうせい1849~1925、嶋田の「嶋」は嶌、島とも本人が記述)が起用されました。[京都市水道局:琵琶湖疏水 1988 p5]
田邉は旧幕臣の田邉太一(たなべ・たいち 1831~1915)や当時内務省地理局測量課長であった荒井郁之助(あらい・いくのすけ 1836~1909)の遠縁にあたりますが、工部大学校校長の大鳥圭介(おおとり・けいすけ 1833~1911)の推薦により採用されました。嶋田は兵庫県八鹿の出身ですが、1871年(明治4)、21歳のときに米国人クラークに師事し、開拓使仮学校(のち札幌農学校)に入学し、開拓使お雇いの米国人ライマンなどに図学、測量術を学び、北海道各地の測量をし、その後、鹿児島県、熊本県の測量方をへて当時、高知県六等属の職にありました。知事の北垣とは同郷で北垣も開拓使出仕であったことから、その人脈で起用されたようです。琵琶湖疏水の第一隧道貫通祝賀式では嶋田は職員代表祝辞のなかで北垣に個人的な感謝の意を表していることは傍証にもなります。
嶋田による測量の業績は琵琶湖疏水の関係以外に見当たりませんが、1885年(明治18)に京都府が出版した「京都府管内全圖」には校正者として嶋田道生の名前が細田信道、山田忠三とともに載っています。琵琶湖疏水工事とは関係ありません。これは縮尺十万八千分の一で地理局測量課が測量した京都御苑内測候所測点の経緯度が「東京城天守臺西經三度五十九分三十九秒 緑威東經百三十五度四十六分七秒 北緯三十五度一分七秒 磁鍼偏四度三十五分」と明示され、発売元として「売捌所 村上勘兵衛 京都東洞院三条上ル町」になっています。この地図は京都府全体の略図ですが京都市街、宮津、福知山などは別枠で縮尺も異なり、やや詳しく載っています。この地図は京都大学と国立公文書館で確認しました。[京都府地理課 京都府管内全圖 京都府 1885]
嶋田は1882年(明治15)4月、京都府疏水事務所の測量技手として、田邉よりも一年早く着任、同僚の細田信道技手とともに所員のなかでは、竣工まで8年を超える最長の奉職期間になっており、通水後も、つぎの延長工事に着手しました。嶋田は田邉朔郎とともに琵琶湖疏水にかかわった技術者として重要な存在でしたが、田邉は工部大学校卒業でもあり、疏水事務所でも三等属で嶋田より階級は上でした。後年、田邉が疏水工事の中心人物として定着してしまい、嶋田が表にでることは少ないようです。[織田直文:琵琶湖疏水 明治の大プロジェクト サンブライト出版 1987 p124]
現在の琵琶湖疏水は1882年(明治15)に測量が開始され、現地工事は1885年(明治18)に着工、当初は山科の天智天皇陵西北から南禅寺山を抜け、若王子付近に至る計画でしたが、翌年に日ノ岡山を隧道で抜け蹴上にいたる現在の水路に変更されています。1890年(明治23)には主要部分である琵琶湖取水口から京都市の鴨川合流点まで約10キロメートルが完成し通水されました。
琵琶湖疏水は3区分の水路からなりたち、第一の水路は「第一疏水」といわれ、琵琶湖取水口から蹴上(けあげ)まで、蹴上から鴨川合流点までの「鴨東運河」と、さらに延長され、現京都市伏見区濠詰町で濠川(ほりかわ)となる地点までの「鴨川運河」を含め総延長20キロメートルの区間になります。鴨川運河は1894年(明治27)に竣工しています。
第二の水路は京都市の蹴上から分岐して南禅寺をへて堀川手前の小川までの分流で1890年(明治23)に竣工しましたが、現在は蹴上から北白川までの3.3キロメートルを「疏水分線」といいます。第三の水路は大津から全線隧道で蹴上にいたる7.4キロメートルの「第二疏水」で、1912年(明治45)に竣工しました。琵琶湖疏水は以上の3水路からなっています。最終の第二疏水の竣工をもって琵琶湖疏水は完工したとされています。「第二疏水開削」は「上水道整備」、「道路拡築および市電敷設」とともに「京都市三大事業」といわれました。[京都市水道局浄水部疏水事務所:琵琶湖疎水 2000 p1]
第一疏水の琵琶湖取水口と、京都蹴上に設けられた船溜の水位差は4メートルで8キロメートルの距離を平均二千分の一の緩勾配で流れています。蹴上から35メートルの落差をインクライン(傾斜鉄道)で下り鴨川に達しています。水路全線には3ヶ所の隧道があります。そのほか蹴上の合流隧道や近年の水路付け替えにともなう諸羽トンネルもあります。
琵琶湖疏水の測量については、まず1882年(明治15)、対象となる地域の「量地測量」といわれる三角測量から始められました。内務省が1874~5年(明治7、8)に実施した京都の三角測量で設定された分木町(ぶんきちょう、現東山三条附近)と聖護院の三角点間を基線にして、東に向かって山科を経て大津まで三角測量による位置と水準測量による高低差を求め、大津練兵場内(現・皇子山総合運動公園)で検基線を設けスチールテープで実測検証したところ1317尺(399.05メートル)に対し2寸6分8厘(8.12センチメートル)の差であり測量の精度が確認されました。[京都市参事會:琵琶湖疏水要誌巻三 1890 p12]
京都市左京区にある琵琶湖疏水記念館には嶋田道生の測量による二千分の一の巨大な実測図があり、地図の表題、注釈には「従滋賀縣近江國琵琶湖至京都通水路目論見實測圖 明治十六年四月 京都府租税課地理掛 測量 嶋田道生 補助 邊渡撨萃、同 志道政亮 同 細田信道」と記載されています。三角点の位置も表示がありますが、標石が設置されたかは不明です。
ついで1885年(明治18)には計画時の「量地測量」に整合した「経始測量」といわれる現地施工のための詳細な測量をしています。琵琶湖取水口から京都蹴上までの間に3ヶ所の隧道がありますが、大津の三井寺山(長等山とも)山麓から藤尾につながる第一隧道は当時、日本では最長の2.4キロメートルあり、全工事中最大の難関であり、中心線の実測にも相当の注意を払いました。
琵琶湖疏水工事以前の1880年(明治13)に旧東海道線(鉄道)の逢坂山隧道(現・滋賀県大津市)が竣工しています。琵琶湖疏水第一隧道の1キロメートル南にあたり延長665メートルでしたが、1878年(明治11)に起工し、ほぼ2年間で完工しています。この経験が琵琶湖疏水でどのように生かされたかは不明です。工部省鉄道局は1877年(明治10)に工技生養成所を開設し、お雇い英国人などを教師にして技術者を養成しました。当時の鉄道局長であった井上勝(いのうえ・まさる 1843~1910、長州出身)の尽力と、あわせて日本の伝統的な職人の技術も活かされ、隧道掘削は鉄道技術のなかでも、ごく早い段階で日本人だけの手で実施できるようになっていました。工技生養成所はのちの工部大学校の一部になりました。[小野田滋:橋とトンネル鉄道探求読本 河出書房新社 2022 p207-211]
隧道(トンネル)の測量は隧道が貫通するまで測量精度の検証をすることが困難なため、個々の測量に極めて高い精度が要求されます。琵琶湖疏水の第一隧道で採用された測量方法は、現在も一般的に採用されています。両坑口に基準点を設置して、トンネルを掘削する山を越して、両坑口の水平位置と高さを、それぞれ三角測量と水準測量によって位置を確定します。これによって両坑口からの坑道内の掘削方向の中心線が定まりますが、隧道が直線であれば、両坑口から視準できる山頂や尾根に基準点を設置して、両坑口と山上から相方を視準して坑道内の掘削方向を定めます。中間に竪坑がある場合は竪坑地上の開口部にある2点(円形開口部の直径に近い)から山上の基準点を視準し、竪坑地上での中心線を定め、開口部の2点から治具を用いて竪坑底まで重錘を2条吊るし、底面で掘削方向を定めます。[夏目正ほか:農林・鉱山・トンネル測量 森北出版 1960 p146、161]、[日本測量協会:測量学事典 1990 p327-332]
量地測量で設定した三角点「相場山」「猫山」間と「猫山」「丸山」間の二線をもとに三角網を構成しましたが、東西の両隧道口の切羽(きりは、掘削の最先端部)付近は三角点は設けられないので東口から東へ346メートル地点に「大津石点」、西口から西へ300メートル地点に「藤尾村石点」を設置し中心線の延長は3点以上が一直線に視準できるように測量しました。1885年(明治18)4月には琵琶湖岸から第一隧道西口までの高低測量、測量基点を大津大門町に設置、同年5月に第一隧道の中心線測量のため、三井寺山の支障樹木伐採、同年6月には隧道中心線に隧道東口、同西口の測量点と隧道中心線上の地山(じやま、掘削の対象となる山)に「三井寺山石点」と「小関越石点」が設置されました。
西へ掘削進行する隧道東口、東へ掘削進行する隧道西口とも経緯儀(8インチ、ランプ付き)を据置しそれぞれ大津石点と藤尾石点を望み掘削方向を定めました。また隧道の中間地点から掘削するため「第一竪坑」(シャフト)が設けられました。東口から1678メートル、西口から758メートル、小関峠南側の位置になります。竪坑の断面は楕円形、長径は隧道中心線に沿い3.2メートル、短径は2.5メートル、深さは地表から47メートルありました。竪坑の地表では当初、「神楽算」(かぐらさん)といわれる巻き上げ機が設置され、ズリや地下水の引き上げや作業員の昇降につかわれました。また坑内換気のため深さ23メートルの「第二竪坑」が西口から300メートルの位置に設けられました。これらの竪坑はともに現存しています。なお隧道の深さはルートの最高地点から150メートルでした。
第一隧道の三角網図には東から「大津石点、隧道東口、三井寺山石点、小関越石点、第壱シャフト、シャフト側仮点、第二シャフト、西口側仮点、隧道西口、藤尾村石点」の4点の石点を含む10地点が距離とともに隧道中心線上に明示されています。三角網図は田邉が1887年(明治20)、工学会誌(現日本工学会)に琵琶湖疏水工事報告として寄稿していまが、後に「琵琶湖疏水工事圖譜」などにも載っています。工学会誌には几号のついた小関越石点を竪坑上部に据え付けた経緯儀で視準している図があります。[田邉朔郎:琵琶湖疏水工事報告 工學會誌 六十八巻 工學會 1887 p576-595]
中間地点の第一竪坑は隧道の中心線上にあり、地上の開口部中心から西へ26メートルの地点に経緯儀を据え小関越石点を望みその視準線上に竪坑開口部を隔てて東西4.2メートルの横桟を設置、地底に設置した2ヶ所の油入りの樽まそれぞれで一貫目(3.75キログラム)の重錘を針金で吊るしました。(田邉は横に張った針金2本の中心から降ろしたと記述し、水平方向の位置が不詳ですが、開口部の口径両端2点に近い位置と解せられます。また針金はプライムラインと記述されています。)ついで地底の重錘2点間(2.2メートルの直線)をもって掘り進むべき中心線を定めました。竪坑の湧水とポンプの振動は測量に悪影響を与えたようで相当の苦労がありました。さらに中心線の延長は東西各18メートルを隔て経緯儀を据え、重錘の針金2本と一直線に視準できるように測量しました。また高低測量は地上に設けた水準点から竹棹で測り坑道では水準儀(20インチYレベル)を使用しました。[田邉朔郎:琵琶湖疎水誌 丸善 1920 p3-45]、[田邉朔郎:とんねる 丸善 1922、p129-133]
1887年(明治20)、第一隧道の竪坑と西口間が貫通したときの様子は後に想像して、つぎのように描かれています。「七月九日午後七時、最後の爆発音が腹にひびくように起った。七百三十三メートルのトンネルは一本に抜けた。ぽっかっと口をあけた向う側に、カンテラの炎が揺れている。朔郎はくだけた岩を踏み分けて、貫通部に駈け寄った。島田も駈けた。二人にとって、はじめての貫通の瞬間だ。ことばにならない感動を、互いの表情に確かめ合う。(中略)『島田さん』『田辺さん』二人の主任技師の手がしっかり握り合った。そのぬくもりの中に、互いの信頼がある。」[田村喜子:京都インクライン物語 新潮社1982 p189]
現地工事は1885年(明治18)に着工、第一隧道では大量の出水や崩落事故もありましたが、1889年(明治22)2月27日に貫通しました。東西両口から掘削した中心線の水平ずれは、西からの中心線は東からの中心線より南に7.4センチメートル偏り、高低のずれについては西からの中心線は東からの中心線よりも上に1.2センチメートル偏り、延長の実測値は三角測量による値よりも114.2センチメートル長い結果になりました。ひきつづき1890年(明治23)には琵琶湖取水口から京都市の鴨川合流点まで約10キロメートルが完成し通水されました。その後、疏水分線(市街北部)、鴨川運河(市街東部)、あらたな第二疏水などの竣工をへて1912年(明治45)に琵琶湖疏水は完工しました。
琵琶湖疏水計画は官民あげて実施にあたり山本覚馬(やまもと・かくま 1828~1892 京都府顧問、会津藩士)、中村栄助(なかむら・えいすけ 1849~1938)や高木文平(たかぎ・ぶんぺい 1843~1910)など地元京都の有力者たちも当時の政府との折衝や利用計画などで活躍しました。工事完成後、京都では琵琶湖の水を水道、発電、水運に利用しました。第二次大戦後しばらくは、まだ貨物を積んだ和船が疏水を通行していました。いまも京都市内のほとんどの水道は琵琶湖疏水により運ばれた水です。電気も蹴上にある水力発電所に繋がっていますが、この電気を利用した市営電車は1978年(昭和53)になくなりました。蹴上の発電所は1891年(明治24)に発電を開始していますが、1912年(明治45)に第二期として拡大され、当時のレンガ造の建物が残存しています。1936年(昭和11)には第三期として現在の発電所となり出力5,700キロワットで発電を開始しました。日立製作所の発電機が現用、予備と2台あるのが特徴です。
第一隧道の西口の上部には山縣有朋の書になる難しい書体の「廓其有容」(かくとしてそれいるるあり)という石額があります。「広大な自然は穏やかでゆったりしている」という意味です。桜の枝にかくれて見え難いようです。田邉は1890年(明治23)4月に工事概要を作成し翌年、英国土木学会(The Institution of Civil Engineers, London)に寄贈しています。これには大津・京都間の三角網実測図と第一隧道の三角網図が添付されています。さらに1891年(明治24)には疏水工事の図面集を編集しています。[S.Tanabe:The Kioto-Fu Canal Works 1890 琵琶湖疏水記念館蔵][田邉朔郎:琵琶湖疏水工事圖譜 1891 国立国会図書館蔵]
琵琶湖疏水記念館には疏水工事でつかわれたとされる水準儀があります。「Yレベル」と呼ばれ米国型の18インチ型です。測機舎(1920年創業、現ソキア)の昭和10年版営業目録に同様の挿絵があり価格は280円です。同様のYレベル15インチ型、米国ガーレー社製は京都大学にも保存されています。日本の本格的な測量機製造業(玉屋、測機舎、服部など)は大正期に始りましたが最初は米国製品の模倣が多かったようです。この形式の水準儀は当時、大量に出回っており、珍しい機種ではありません。[永平幸雄、川合葉子:近代日本と物理実験機器 京都大学学術出版会 2001 p305]
平安神宮近傍の疏水に沿った京都市疏水事務所奥には北垣國道の像があり向かいの冷泉通から見ることができます。1902年(明治35)に京都市参事会が設置、第二次大戦中に撤去されましたが、1990年(平成2)に再建されました。また、ここから上流に位置する九条山山麓の蹴上船溜には田邉朔郎の像があります。1982年(昭和57)に設置され「田辺朔郎博士像」と銘があります。さらにその右には「工學博士田邉朔郎君紀功碑」という石碑がありますが1923年(大正12)、下鴨に建立され1941年(昭和16)にこの地に移設されました。
2025年(令和7)琵琶湖疏水の構築物が国宝指定になりました。第一隧道、第二隧道、第三隧道、インクライン、南禅寺水路閣の5ヶ所が近代の土木構造物としては、初めての国宝となり、ほかに大津閘門、蹴上浄水場第一高区など24ヶ所が重要文化財に指定されています。
琵琶湖疏水の遺跡の調査については琵琶湖疏水記念館、京都市上下水道局疏水事務所、京都府立総合資料館(現・京都府立京都学・歴彩館)、国土地理院、計量研究所(現・産業技術総合研究所)の皆さんに数々のご助言と展示物の撮影許可をいただきました。
琵琶湖疏水の測量標石
琵琶湖疏水工事の測量についての記録は少ないですが、測量に関連した資料として第三隧道西口(蹴上側)の写真があります。写真中央下には隧道の掘削の際、中央を定めた標識(測旗か)が見えますが、予定水路の中央にあたり標石のような永久標識ではないと思われます。この位置から九条山に設置された測点(現存)を視準して方向を定めたと考えられます。この写真は京都市電気局発行の「琵琶湖疏水及水力使用事業」1940にも掲載されていますが、おなじ写真が京都府立総合資料館にあります。同館所蔵の写真は疏水工事の際に京都府会議員として尽力した中村栄助のご子息にあたる高山義三元京都市長の旧蔵写真帖にあり、原本は貴重書に指定されています。そのなかの写真を同館の許可を得て複写掲載したので転載はできません。[京都市電気局:琵琶湖疏水及水力使用事業 京都市電気局 1940 p303]
明治初期の几号水準点は関東以北で多く見られますが、明治中期には琵琶湖疏水の測量でも設置されたようで、標石が大津市の小関峠近くの山中に残っています。この存在を知ったのは京都市発行の「琵琶湖疏水の100年」で当時の日出新聞コピーもあわせて載せてあるの見つけたのがきっかけです。ちょっと小さく活字も潰れていたので日出新聞の後継にあたる京都新聞社で保存されているマイクロフイルムで調べました。「疏水線路見通しのため嚮(さき)に伐木せし滋賀郡別所村所屬官林及び小關峠の頂上へ就業中石材を以て測量點設置することに决したるよし」とあります。[日出新聞:明治18年6月20日2面 1885]、[京都市水道局:琵琶湖疏水の100年(叙述編)1990 p120]
「明治工業史」土木編には琵琶湖疏水の測量について記述がありますが、そのなかにもこの小関峠の「石点」が載っています。「長等山の隧道は、長二十二町、當時日本第一の長隧道と稱せり。随(したが)つて其の中心線實測は、頗る注意を拂ひ...第一竪坑よりの測量は、其の中心より約八十六尺の所に八吋ランプ附經緯儀を据ゑ、小關越の石點を望んで...」とあります。[日本工学会:明治工業史6 土木編 原書房 1995 p685]
小関峠の測点(第一隧道)
小関峠は大津市小関町から同藤尾奥町へ出る古い街道の峠です。なんども現地周辺を探索したり、京都市水道局の琵琶湖疏水記念館を訪ねたり、疏水事務所の水路巡視員に尋ねたりしましたが、所在は不明でした。しかし2001年(平成13)2月に測量史を研究されている国土地理院の技術者から見つかったとの知らせがあり、さっそく現地で確認をしてきました。小関峠から南へ5分ばかり山中にはいると巨大な50万ボルトの緑色に塗装された送電鉄塔があり、「山城北線42号」の表示があります。標石はその北東角の脚から20メートル北の山中にはいった桧林の斜面にあり、ちょうど疏水第一隧道の真上にあたります。[中野博美:琵琶湖疏水に伴う小関越えの基準点(几号付)について 「測量 関西支部報」60号 日本測量協会関西支部 2002 p28]、[上西勝也:琵琶湖疏水工事の測量遺跡 土木学会誌 111巻第7号 2026 p14-15]
花崗岩の台座のうえに標石が載っており「不」の字が東面にあります。台座は60センチメートル角、地上高さ50センチメートルで、標石本体は24センチメートル角、台座上面から標石上面までの高さ30センチメートルであり、台座には中央から少し北(谷側)よりにセメントで接着されています。「不」の字の横棒は9センチメートル、縦棒は12センチメートルあり東京方面で見られる几号よりも、ひとまわり大きいようです。また上面には直径3.5センチメートル、深さ10センチメートルの穴があり、ここに旗さおを差し込んだと思われます。もともと几号水準点は不の字の横棒に金具を差し込み、それに標尺を取りつけましたが小関の場合はトンネルの中心線を標示するための標石で不の字は単に測量を表す記号であったかもしれません。
三井寺山の測点(第一隧道)
琵琶湖疏水建設当時の新聞記事によると、測量標石は小関峠のほかに別所村所属官林にも設置されたことがわかります。小関峠石点の再発見以来、周辺の想像される地点を方々探しましたが、ついに2004年(平成16)7月、国土地理院の技術者が見つけられ、私も確認しました。この標石は当時の三角網図では「三井寺山石点」になっています。後日わかったことですが、この標石は小関峠の標石とともに1988年(昭和63)京都市水道局の職員により百余年ぶりに見つけられたと写真付きの報道がありました。[京都新聞:疏水の「誕生石」見つかる 京都新聞社 1988.6.5]
小関峠石点から小関越車道をはさみ北東約500メートルのところに、山頂がなだらかな山がありますが、そのピークから170メートル東にあり、これも小関峠石点とおなじく疏水第一隧道の中心真上にあたるところです。尾根筋の踏み跡には国有林の境界杭(園城寺領との境界か)があり、ピークから20メートル東の1基目の比較的新しい境界標石の南には朽ち果てたテレビ共聴設備の残骸があります。さらに100メートル東に2基目の境界標石があります。この地点から50メートル東の3基目の標石から南東15メートルの国有林内斜面に目指す三井寺山石点があります。谷側は雑木林で山側はヒノキの植林地になっており展望は得られません。
標石の大きさは小関峠石点と同じですが、台座の地上高さが最高18センチメートル程度です。几号の刻印は東面にみられ標石は台座の中心より9センチメートル北寄りにセメントで固定されています。小関峠石点の場合も北寄りになっています。このようにアンバランスなのは広い方の台座平面に標尺などの測量機器を設置したと思われます。
京都大阪森林管理事務所の「淀川上流森林計画区図」によれば小関峠、三井寺山両石点の位置はともに「別所16」林班の範囲内にあり三井寺山の尾根筋の踏み跡は防火線になっています。当時の三角網図では小関峠、三井寺山以外に大津石点と藤尾村石点がありますが、これらは工事中の水路の中心に設置されたと考えられ、かりに偏心点として別個に設けられたとしても現在は住宅開発などで残存は望み薄です。
山科御陵の測点(第三隧道)
(几号なし)
測点は京都市山科区日ノ岡から左京区蹴上(けあげ)までの第三隧道東口近くの尾根でも見つかりました。所在地は京都市山科区御陵封ジ山町になります。東口付近から隧道上部へは急斜面で住宅も密接しているため直接登ることはできません。東口前の「日本最初の鉄筋コンクリート橋」を渡り、蹴上へのハイキング道を一たん隧道東の尾根にそって登り、回り込むように西の尾根を降ります。踏み跡はありますが岐路が多くわかり難い場所です。尾根筋には7万ボルト送電線、蹴上線12号鉄塔があり、蹴上の日向神宮からも到達できます。この鉄塔の300メートル下の踏み跡のほぼ中央に標石があります。周囲は雑木林で木の間から山科市街を望むことができます。第三隧道の真上にあたることから東口から視準されたと思われます。
標石は自然石を基台とした低い角柱で対角方向が東西、南北になるようセメントで基台に固定して据えつけられています。大きさは一辺25センチメートル、高さ19センチメートル、上面中央に直径4センチメートル、深さ6センチメートル以上の穴があります。基台は最大幅50センチメートル程度の不定形で表面は平らに削られています。刻字、几号などの刻印は見られません。
九条山の測点 (第三隧道)
(几号なし)
山科御陵の測点 を探訪した以前のことですが、第三隧道の西口近傍にも測点が設置されていたことが書籍でわかりました。設置場所は隧道上の最高地点にあたります。地下鉄蹴上から東へ日向神宮に入り本殿南の尾根筋にある遥拝所から西南200メートルの位置で踏み跡はあります。標石の近くには水道局官舎のテレビアンテナと思われる鋼管柱が立っているので、これが目印になります。この位置は旧九条山浄水場からも到達可能です。[加藤玲子:続・疏水のほとりから かもがわ出版 2003 p129]
標石は自然石を基台とした低い角柱で対角方向が東西、南北になるようセメントで基台に固定して据えつけられています。大きさは一辺23~24、高さ13センチメートル、上面には直径9センチメートルの円形のふくらみと中央に直径1.5、深さ6センチメートル以上の穴があります。基台の大きさは南北方向最大60、東西方向最大80センチメートルの多角形、地上高さ20センチメートルになっており東側の下部は小石混じりのセメントで補強されています。基台、角柱とも荒削りの黒雲母花崗岩です。刻字、几号などの刻印は見られません。
周囲は雑木、枯れた松などあり、見通しはありませんが、隧道上のピーク(標高約170メートル)にあることから第三隧道の施工時に使用され、蹴上から視準したと思われます。ただしこの標石についての記録は見つかっていません。
第一隧道(延長2436メートル)、第三隧道(延長850メートル)で測量標石が見つかったので、近くの第二隧道(延長124メートル)も調べましたが標石は見当たりませんでした。
永観堂の測点 (第六隧道)
(几号なし)
左京区永観堂の多宝塔の裏山に測点が現存することを大阪の測量技術者から連絡があり現地で確認しました。多宝塔の北(左)にある尾根を20メートルほど東に登ったところです。この位置は南禅寺と若王子間の疏水分線で第六隧道(延長182メートル)の中央にあたると思われます。尾根筋には踏み跡があり、永観堂と疏水用地の境界杭らしい石柱もありました。標石の場所からは展望はありませんが、多宝塔まで降りると西正面には嵐山方面が望めます。
標石は花崗岩の低い角柱でセメントで基台に固定して据えつけられています。大きさは一辺21.5、高さ20センチメートル、上面中央に直径3.5センチメートル、深さ10センチメートル以上の穴があります。基台は一辺64、地上高20センチメートルで整形された花崗岩になっています。刻字、几号などの刻印は見られません。
疏水建設当時の水準点
疏水建設当時には多くの水準点が設置されました。琵琶湖疏水要誌には「ペンチマークヲ沿道各所ニ設置ス蓋シ一部分ノ工事成ルニ随ヒ當初布設スル所ノ測量杭ハ撤棄スルモノナレハ重テ高低ヲ量リ成蹟ヲ檢スルニ此ペンチマークヲ以テ最モ緊要トナス起工以來本線路ニ沿フテ設置スルヿ(こと)十三ヶ所枝線路ニ在テハ十九ヶ所之ヲ左ニ表ス」(ペンチマークはベンチマークの誤記)とあり、幹線は「四宮村北東」から「傾斜鐡道下」などをへて「川端夷川北ヘ入ル」まで13ヶ所、支線は「第四隧道北口」から「浄土寺村入口」などをへて「二股川東」(現在の堀川中立売あたりか)まで19ヶ所の水準点の位置と高さ(湖面からの低下値)が記載されています。京都市水道局の「琵琶湖疏水100年」では「水路に沿って各所にベンチマークを設置した。このマークは、大阪湾の最低干潮面(OP)を基準にした海抜で示し、琵琶湖水面との落差がわかるようになっており、四角い石にまるい印がつけてある。」とあります。[京都市参事會:琵琶湖疏水要誌 巻三 1890 p18]、[京都市水道局:琵琶湖疏水の100年(叙述編)1990 p124]
さらに1890年(明治23)疏水の竣工時には夷川(現・左京区下堤町)で鴨川に合流していましたが、引き続き疏水下流を延長して伏見で宇治川と連絡するための工事が着手されました。そのときも「川端仁王門北東角敷石」から「伏見堀詰」まで23ヶ所に水準点が設置されており、位置と高さ(鴨川疏水落合からの低下値)が明らかになっています。この疏水下流延長工事(新運河開鑿事業)は1890年(明治23)に着手され1894年(明治27)に竣工しました。測量技師の嶋田道生は工事途中で北垣知事の転任にともない北海道庁技師に就任し、竣工式には祝電を送っています。[京都市参事會:琵琶湖疏水要誌 訂正下巻 1896 p259、292]
わたしは水準点計55ヶ所の地点をなんども探索しましたが、幹線には見当たらず、分線は南禅寺、若王子間は一部立入禁止のため調査不十分ですが、分線末端近傍の堀川で水準標識の几号1ヶ所が確認できました。下流の「鴨川運河」では疏水工事の水準点と思われる几号が東福寺附近で2ヶ所確認できました。下流の2ヶ所は、いずれも昭和後期に周辺の大規模な環境整備、歩道拡幅などで施工当時とは変わっています。また分線では水路から、かなり離れた位置(たとえば「深泥池畔」)もあり、表現も漠然としているため見落としはあると思われます。
第二疏水関連では「京都市水利圖譜 蹴上附近平面圖」をみると蹴上の第三隧道出口近くにある東本願寺向け取水槽の南西角と南禅寺橋南に几号(「不」の字)の印があります。これも取水槽の縁は後年、コンクリートが打設され不明、南禅寺橋南は交番になっており跡形もありません。[京都市役所:京都市三大事業誌第二琵琶湖疏水編図譜 1913]
撤去された水準点
京都市上下水道局のご好意により、左京区若王子の撤去物置き場で、横倒しになっている水準点標石を見つけることができました。自然石を基盤として角柱が埋め込まれており、基盤石の大きさは一辺50~90センチメートルの不定形で自然石が2つに割られ角柱を埋め込んだ後にコンクリートでつながれています。
角柱のサイズ24センチメートル角、高さ(基盤石表面から)19センチメートル、角柱と基盤石の隙間は3~4センチメートルでコンクリートが流し込まれています。角柱上面中央に直径4、深さ10センチメートルの穴あり中央から7センチメートル隔てた上面角に直径5.5、高さ2センチメートルの球分体があります。刻字や刻印はどの面にもありません。
これが「琵琶湖疏水100年」に記述された「四角い石にまるい印がつけてある標石」と思われます。元位置はわかりません。角柱上面の球分体は水準点で、この上に標尺をのせ、中央の丸い穴は三角測量のための指標(標旗など)を差し込んだと考えられます。疏水工事では几号のマークはつかわれていましたが、現行の水準点のように球分体がある標石は、ここではじめて見ることができました。 また球分体が中央から、ずれているのも珍しい形式です。
この標石は2009年(平成21)10月に撤去物置き場から琵琶湖疏水記念館の前庭へ移設され、展示されることになりました。説明板には第二隧道と第三隧道の中間附近の道に設置されていたとありますが、記録などの根拠はありません。この位置であれば「琵琶湖疏水要誌」には「第八號 第二第三隧道中間(湖面より低下)十二尺一寸三分五厘」とあります。[京都市参事會:琵琶湖疏水要誌 巻三 1890 p19]
伏見街道第二橋の水準点
京都市東山区東福寺の近くで、九条通が大きく北へ曲がるところに東山橋という高架橋がありますが、その真下の伏見街道東側歩道に第二橋の刻字がある欄干の親柱(おやばしら)の遺構が見られます。「二ノ橋」と呼ばれていますが、川は現在暗渠になっています。親柱は四基とも残置されていますが、北西の一基の下部東側に几号「不」の字の刻印が、また親柱北側には「伏水街道第二橋」の刻字があります。
几号の大きさは横棒7、縦棒7.5センチメートル、地上高さ16センチメートルで鮮明な深い彫りなっています。南西の親柱には「京都府知事 長谷信篤」と京都府初代の知事名が刻まれていることから1868年(明治1)以降、数年の間に建設されたと思われます。この几号は琵琶湖疏水の水準標石として記録にある「十二號 二ノの橋川筋道路西側」と同じ可能性があります。[京都市参事會:琵琶湖疏水要誌 訂正下巻 1896 p260]
伏見街道第三橋の水準点
第二橋から伏見街道を400メートル南下すると第二橋と同じ造りの第三橋が残置されています。東福寺の中門前北にあたり、この橋の下を流れる三ノ橋川のすぐ上流には有名な東福寺通天橋があります。橋の南東にあたる欄干の親柱の下、舗道すれすれの位置に几号が見られます。几号の大きさは横棒7.5、縦棒9センチメートルで鮮明な深彫りなっています。この几号は琵琶湖疏水の水準標石として記録にある「十三號 三ノ橋川筋運河西側畔」と同じ可能性がありますが、実際、三ノ橋は疏水の東側にあり「運河西側畔」という記述にたいして疑問が残ります。[京都市参事會:琵琶湖疏水要誌 訂正下巻 1896 p260]
2008年(平成20)11月時点でこの几号は消失し親柱のみ新しく取り替えられていることが分りました。車の衝突により頭部が破損しましたが、元の親柱は地元の人たちによって近くの月輪小学校跡の正門内部右(南)に移設され几号も残存しています。
また橋の北東、「伏水街道 第三」と刻字された親柱から1.5メートル北東の地点に一辺20センチメートル、地上高さ20センチメートルで上面に丸みを帯びた角柱標石があり背後には一辺14~17センチメートル、地上高さ80センチメートル、目的不明の角柱があります。
伏見街道に沿って、第二橋「二ノ橋」より北にもうひとつ「一ノ橋」がありましたが1950年(昭和25)に一橋(いっきょう)小学校運動場に移設されました。第二橋、第三橋と同じ造りですが、親柱の下部が土中に埋没しており、几号の存在は確かめられませんでした。また第四橋は第三橋の南2.6キロメートル、名神高速道路をくぐり南へ500メートルの伏見街道に残存していますが、几号はありません。。
かつて一ノ橋は愛宕郡と紀伊郡(ともに山城国)の境界にあたり京の都から伏見をへて大坂に向かう旅人は夜明けに通過することが多かったようです。「子規(ほととぎす)一二の橋の夜明けかな 其角」、宝井其角(たからい・きかく 1661~1707)は江戸時代前期の俳諧師で松尾芭蕉の弟子の中で第一の門弟と言われています。
堀川第一橋の水準点
上京区堀川中立売にある「堀川第一橋」で几号高低標を見つけました。地元では堀川第一橋は「中立(なかだち)の橋」と呼ばれています。几号は北東端の親柱の南側(内側)下部に見られます。几号の大きさは横棒8、縦棒7センチメートル、地上高さ12センチメートルで鮮明な彫りです。
橋の四隅にある親柱にはすべて「堀川第一橋」と刻字、さらに几号のある北東端は「明治六年五月」、また南東端は「京都府知事長谷信篤 京都府参事槇村正直 建築主任京都府十二等出仕中村孝行」と彫られています。この橋は石造の美しいアーチで車道になっています。すぐ南には橋と並行して日本で最古の電車のレンガ造りの橋台跡があります。「堀川第二橋」は「下立売橋」ともいい、第一橋の下流550メートルにあり1971年(昭和46)に立て替えられ古い親柱は南側2基が残存していますが、几号はありません。
この几号は琵琶湖疏水の水準標石として記録にある「十九號 二股川東」と思われます。琵琶湖疏水は南禅寺の南で本線と分岐して分線は北へさらに松ヶ崎、下鴨、小山をへて小川頭で小川に合流し、さらに堀川に合流しています。分線終点の水準標石は「十八號 小川頭」になっていますが、未発見です。小川はかつて「こがわ」とよばれ上流では「二股川」ともいわれていたようです。それにしても「二股川東」という記述にたいして、堀川は小川よりも西に並行して流れ、かつ当該位置は小川と堀川の合流点よりも南にあるため疑問は残ります。[京都市参事會:琵琶湖疏水要誌 訂正上巻 1896 p284][藤田二朗:堀川ものがたり 「夕刊京都」 夕刊京都新聞社 1975.8.21]
疏水竣工当時の京都の地図によれば現在の堀川鞍馬口(紫明通)の北に「小川頭」が明示されています。疏水は「小川」(賀茂川の支流で現・小川通)といったん合流し、堀川と並行し約1500メートル先の堀川一条(中立売の一筋北)の「一条戻橋」南で堀川と合流しています。[布施義雄:京都明細新圖 福井源次郎発行 1895]
堀川は京都市の中央を流れる川で平安京造営時に運河として開削されました。堀川第一橋は二条城と御所を結ぶ公儀橋として江戸初期から木造の橋になっており第一橋は「鶴の橋」、第二橋は「亀の橋」とも呼ばれました。両橋は1873年(明治6)に石造アーチ橋となりました。第二次世界大戦後、堀川下流の浸水対策として堀川の一部が疏水分線を逆流して鴨川へ放流していた時期もありましたが、その後、下水道の整備などで水流はほとんど消滅しました。2002年(平成14)から京都市による堀川水辺環境整備事業として水流が復活され今出川通から二条城までが親水公園になっています。2009年(平成21)の春に竣工しました。
近年の水準点1
京都蹴上にある琵琶湖疏水のインクラインを登りきったところに発電所の水圧鉄管が見える取水口があります。上部番舎の北から南禅寺、銀閣寺方面への「疏水分線」とよばれる支水路の起点となりますが、水準点標石が支水路入り口南側に見られます。○に水の刻印(京都市水道局のマーク)とベンチマークを意味する「B.M.」が、裏面には「昭和二十七年」の刻字があります。上面には直径9センチメートルの球分体があり、上面一辺20センチメートル、底面一辺24センチメートル、地上高24センチメートルの角錐です。
近年の水準点2
琵琶湖疏水第一隧道の西口から1キロメートル下流の右岸にあります。JR「山科」の東でJRを横断する陸橋を渡ると疏水にかかる小さいコンクリート橋があり、これを渡って下流60メートルの地点です。一辺15センチメートル、地上高30センチメートルのコンクリート製角柱で北面に「BM OP+85.189 昭和57年3月 京都市 水道局」と書かれたプラスチック板がはめられており上面には金属指標がありました。
境界標石
京都山科にある琵琶湖疏水の四宮船溜まりで見かけた境界標石ですが、この種の標石は疏水の水路に沿って、いたるところに見られます。疏水の水路とその周辺は滋賀県大津市にある取り入れ口からすべて京都市の用地になっています。建設当初の境界標は花崗岩で「疏」という刻印が側面に見られますが、近年の標石はコンクリート杭が多いようです。
小関越と几号高低標
琵琶湖疏水に並行して大津市側には「小関越」という古道があります。東海道のバイパスですが、かつて北国街道(北国海道とも)の一部となっていたようです。小関越は東海道大津宿「札の辻」(現・ 大津市京町一丁目交差点)で東海道から分岐して、三井寺の南から小関越の峠を経て大津市横木一丁目、京阪電鉄「四宮」の東500メートルで再び東海道と合流します。現在は延長約4キロメートルの車道になっています。小関越の沿線には几号高低標が数ヶ所見られます。これらの几号高低標と琵琶湖疏水との関係は明らかでありません。
大津市道路元標の几号高低標
大津市で昔から「札の辻」といわれる場所で、交差点の西南角にある大津市道路元標の台座に几号のしるしが彫られているのを見つけました。台座の東面下で不の字の横、縦棒とも8.5センチメートル、地上高15センチメートル程度です。几号高低標は1877年(明治10)頃、内務省により東京方面に多く設置されています。一方、道路元標は1921年(大正10)頃全国の市町村に一斉に設置されましたが、この時点では、すでに現在使われているような球分のある水準点が存在しており、このような単独の几号は使われていなかったはずです。このことから先に不の字が彫られていた台座だけを流用したのではと思われます。地元の人の話では、この道路元標は昔からこの位置にあり、旧東海道と北国街道(北国海道とも)の接合点にあたり、初期の大津市役所もここにあったとのことです。
大津市小関墓地の几号高低標
大津市小関町7にある等正寺墓地の入口に几号が見られます。南無阿弥陀佛の石碑の下にある石垣に刻印されていますが、石碑には安永八年七月と刻字があり、几号高低標の設置時期とは関係がありません。不の字の横、縦棒とも9センチメートル程度で、横棒まで地上高39センチメートルあります。この墓地にはわたしの先祖の墓があり毎年、彼岸とお盆にはおまいりするのですが、60年間気がつきませんでした。わたしもこの墓地に入ることになっていますので、死んでも几号高低標と係わることになりそうです。
等正寺山門の東50メートルの旧小関天満宮前には小関越の道標があり、高さ1メートルの石柱、西面に「左り三井寺 是より半丁」、正面に「右小關越 三条五条いまく満 京道」、東面に「右三井寺」と刻まれており、江戸時代中期に建立されたようで、大津市の有形民俗文化財になっています。
大津市藤尾普門寺の几号高低標
大津市藤尾にあり、京都市との境界にあたる位置です。京都の山科から琵琶湖疏水に沿って東北へすすむと、大津へ抜ける小関越があり昔は街道の一部でしたが、いまはハイキングコースになっており、この下に琵琶湖疏水の第一隧道が通っています。山科方面から藤尾に向かい、この小関越の旧道に入るところに普門寺がありますが、几号高低標はこの寺院の境内、ちょうど本堂裏の山の斜面にある石垣で小関越の道からも低い土塀の内側に見ることができます。
石垣のなかで、もっとも大きい一辺50~60センチメートルの自然石に几号があり、「不」の字の横棒、縦棒ともに9センチメートル、地上高さは33センチメートルあります。「不」の刻字が少し傾いており、小関越の道から10メートルほど離れています。普門寺によると1965年(昭和40)頃に小関越の道でガス管工事があったため移設されたようです。
この位置は琵琶湖疏水第一隧道の工事で設けられた縦坑の近傍になりますが、標石が疏水の初期工事と関係あるのか、大津市の小関墓地にある几号と連系しているのか不明です。元位置の近傍には測量機器を載せる台石もあったそうですが現在は不明です。普門寺は疏水工事当時には関係者の宿舎になっていました。
大津市藤尾寂光寺の几号高低標
琵琶湖疏水第一隧道の西側出口近くの大津市藤尾奥町にローソン藤尾小金塚店があり、ここから小関越のルートに沿い、北へ200メートルの東側に寂光寺があります。正面駐車場の北には藤尾磨崖仏の建屋がありますが、その南東石垣下、南東角から2.5メートルのところに几号が見られます。
「不」の字の横棒9.5、縦棒10、横棒までの地上高さ18センチメートルになっています。この位置は普門寺の几号と400メートル程度しか離れていないので同一水準路線上であるとすれば、近すぎて移設された可能性もあります。また琵琶湖疏水の工事と関係も不明です。
寂光寺の南西1キロメートルのところ、大津市横木一丁目の旧東海道に面して小関越の道標があります。高さ2.5メートルの石柱、西面に「小關越」、南面に「三井寺觀音道」、東面に「願諸来者入重玄門」、北面に「文政五季十一月建之・・・」と刻字があり、1822年(文政5)に建立されたようです。
京都市東山二条妙傳寺の几号高低標
小関越からは遠く離れていますが、京都市左京区東大路二条下ル北門前町(通称・東山二条)に妙傳寺があり、境内の北西角の碑の下に几号がみられます。この碑は50センチメートル角、高さ2メートル程度の花崗岩で四面とも「南無妙法蓮華經」と刻され、地上高さ計2メートルの三層の基台の上に載っており、几号は碑の北西面下、「法界」(実物は右書き)と刻された基台の上にあります。「不」の横棒は8、縦棒は7、横棒までの高さは基台から2センチメートル上(地上高さは約2メートル)に位置します。
基台は南西面に「明治十四年 十一月 爰轉致 六十祠法 日眞 代」(縦書き)とあることから、1881年(明治14)に作成されたようです。碑本体に刻された几号の位置が地上高さ2メートルと高低標としては異常な高さであることから、もともと地上に直接設置された碑が後年に移設され、基台上に載せられたと思われます。その後も東大路通の整備や境内北西角の隅切りなどで、何度か移転され最終的に現状のようになった可能性があります。
妙傳寺の位置は琵琶湖疏水の近傍にあたり、疏水建設当時には多くの高低標が設置されたので、その一つであることも考えられます。疏水工事の着工は1885年(明治18)であり、当時の記録によれば、妙傳寺近傍では「第十一號 廣道二條通 百十尺三寸八分八厘」、「第十二號 二條通寺裏 百廿五尺三寸九分九厘」と記載されています。数値は琵琶湖面からの高低差(低下)を表しています。第十一號の「廣道」は現在の平安神宮東側から動物園にかけての道であり、現在の妙傳寺からは600メートル東になります。また第十二號の「寺裏」はどの位置かわかりませんが、番号から察すると廣道よりは西になります。当時、東大路通は名前もなければ現在のように整備もされていませんでした。この標石が疏水工事につかわれたとすれば第十二號の可能性が考えられます。[京都市参事會:琵琶湖疏水要誌 巻三 1890 p18]
妙傳寺は日蓮宗の寺院で1477年(文明9)に創建されました。京都市内で何度か移転し、現在も四条西洞院に妙傳寺町の名称が残っています。しかし碑の基台の刻字「明治十四年」の時点に碑がどこにあったかは不明です。