剱岳の登攀
1900年(明治33)には、中部山岳地帯の北部に位置する白馬岳や立山などの一等三角点の設置と観測は終了、この地方の測量の根幹ができあがりました。点の記によると、一等三角点「白馬岳」の撰点は1893年(明治26)に陸地測量師館潔彦、造標は1894年(明治27)に陸地測量手古田盛作、観測は1897年(明治30)に陸地測量師関大之によって実施されています。一等三角点「立山」の撰定は1894年(明治27)に館、造標は1896年(明治29)に古田、観測も1900年(明治33)に古田と記されています。ついで二等三角測量が行われましたが、立山周辺の二等三角点「大窓」、「大日山」(大日岳)、「栂山」(越中沢岳)などは1902年(明治35)に古田によって実施されています。
陸地測量部は一、二等三角測量についで三等三角測量に着手し、1907年(明治40)、三角科第四班に所属する陸地測量手柴崎芳太郎(しばざき・よしたろう 1876~1938)が立山周辺区域の三等三角測量の担当に選ばれました。隣接した区域は前年から陸地測量手の佐々木戸次郎、井口貫一、当年は陸地測量手の吉野半平、青木一郎、田邊他見雄、岡本義雄、工兵大尉の片上盛が分担しました。
柴崎が担当する区域では剱岳も拠点として三等三角点の設置候補地になっていました。しかし剱岳はきわめて困難な岩塊の地形で、かつ過去の登攀実績もないため、陸地測量部のみならず、当時創立されたばかりの「山岳會」からも登頂が注目されていました。当時の陸地測量部長は大久保徳明(おおくぼ・のりあき 1860~1917)少将、三角科長は樋口誠三郎(ひぐち・せいざぶろう 1862~1921)大佐、第四班長は玉井要人(たまい・かねと)大尉であり、ともに剱岳の初登頂を願望していました。山岳會は1906年(明治39)に小島烏水(こじま・うすい 1873~1948 小島久太とも)などにより設立され、のちに「日本山岳会」になります。
柴崎のほか測夫の生田信(いくた・のぶ 1885~1950)、同木山竹吉、案内人の宇治長次郎(うじ・ちょうじろう 1885~1950)などは大山村和田に出張中の基地とする「根宿」(こんじゅく)を設け、1907年(明治40)の夏、自然の猛威など、さまざまな試練を乗り越え立山周辺で26ヶ所の三等三角点の選定、造標、観測を行っています。剱岳への登頂は、山頂西の早月尾根や、南の別山尾根からも試みられたようですが、いずれも困難と判断され、最終は剱沢から剱岳東南の雪渓(現・長次郎谷)をへて、苦闘の末、登攀に成功しました。柴崎一行による剱岳登頂の日時と陣容は、不詳な点もありますが、一行は偵察と撰点のため二度、登頂しています。最初の偵察では測夫の生田などが7月13日に登頂、二度目の撰点では柴崎自身などが7月28日に登頂しています。しかし、標石や機器を運搬設置し観測することが極めて困難な地形であり、結果として三等三角点の永久標石は埋設されず、目じるしとなる測標のみが設置され、四等三角点となりました。当時の陸地測量部では四等三角点は三等三角測量のなかで臨時に設けられ、標石は設置されず、近傍の既設三角点から観測され、位置が決定されます。
当時の測量標原簿が国土地理院に残存しており、「立山村大字芦峅寺村字剱岳 大坂大林区署 四十年七月十三日撰定 柴嵜芳太郎」などと記載されており最初に生田などが登頂したのは7月13日と考えられます。剱岳の柴崎自身の登頂については、2008年(平成20)になって、国土地理院に当時の「四等覘標高程手簿」が残存していることがわかりました。手簿には「月日 7/28、番号(27)、測站ノ名稱 劔岳、自覘板下邉至標杭 1m32(標杭から目標板までの高さが1.32メートルの意か)、備考 本点ハ特種ノ四等三角点ニシテ巻尺ヲ以テ測定セシモノナリ」と柴崎の自筆で記入されています。これにより7月28日に登頂したことがわかります。[陸地測量部:測量標原簿(三角点ノ部)富山県中新川郡 1912頃 11丁]
いまも国土地理院に保管されている「越中國 三等三角點之記 明治四十年度 五百参拾七部 測量掛 柴崎芳太郎」によれば、1907年(明治40)の夏、立山周辺で26ヶ所の三等三角点の測量が記録されています。この簿冊には剱岳の記載はありません。おおむね、撰点は5月中旬から7月中旬まで、造標は6月中旬から7月下旬まで、観測は8月上旬から10月上旬までの期間で完了しています。26ヶ所のうち1ヶ所、隣接区域との境界にあたる点名「野口」(針ノ木岳か)は青木一郎測量手による測量で柴崎は計算のみ行っています。測夫の生田が登頂した7月13日の前日には立山雄山の東にあたる点名「五越續」の撰定と造標、13日は早月尾根上にある「気和平」の造標の記録があります。柴崎が剱岳に登頂したとされる7月28日は記述はありません。撰点、造標、観測は一行が分担して実施しているため矛盾はないと思われます。
生田などによる最初の登頂の際、山頂で古代の錫杖の頭と鉄剣が発見されました。このことから、剱岳はすでに修験者によって登頂されていたことが明らかになり、初登頂は陸地測量部の期待外れになりました。剱岳山頂で発見された。銅の錫杖頭は長さ13.4、輪経10.9センチメートルの、うちわ状の輪郭になっています。細部は欠落して環も失われています。鉄剣(槍の穂か)は、長さ22.6センチメートルの両刃造りになっています。いずれも奈良時代後半から平安時代初期の作と推定されています。1959年に国の重要文化財に指定されましたが、1982年(昭和57)に柴崎家から富山県に寄贈され、現在は立山町芦峅寺の立山博物館に収蔵されています。写真は同博物館の許可を得て撮影しました。「柴崎芳太郎:出張地ニ於ケル見聞ニ就テ 三五會會報 第21号 陸地測量部 1908 p13-16」、「柴崎芳太郎:劍山ニテ獲タル錫杖ニ就テノ考證 三五會會報 第33号 陸地測量部 1909 p53-56」
陸地測量部の柴崎などによる剱岳の登攀については、日本山岳会(発足当時は単に「山岳會」)の会誌「山岳」でたびたび取り上げられてきました。1908年(明治41)の「山岳」では「K,K」(小島久太とされている、小島烏水と同人)による「越中剣岳先登記」として、当時の富山日報(現・北日本新聞)の午山記者による、立山温泉での柴崎一行の取材記事が引用されています。[K,K:越中劍岳先登記「山岳」3年3号 山岳会 1908 p113-118]
剱岳には陸地測量部による登攀の2年後、1909年(明治42)に東京大学在学の吉田孫四郎一行が宇治長次郎の案内により登頂し、その記録は1910年(明治43)の「山岳」で発表され、吉田に同行した石崎光瑶(いしざき・こうよう 1884~1947、日本画家)が撮影した山頂の測標の写真も掲載されています。この測標は四等三角点として2年前に陸地測量部により設置されたものです。石崎は富山県生まれの日本画家で、竹内栖鳳(たけうち・せいほう 1864~1942)に師事し花鳥画の大家であり、剱岳への登頂は25歳のときになります。吉田の記事には、吉田と石崎、河合良成、野村義重と長次郎ほか2名の案内人などが剱岳を極めたことが記述されており、登路については「終に撰んで成功し得たる剱嶽唯一の登路なれ。其位置は別山峠よりの雪渓途上にて望見する剱嶽山腹の右端、U字形をなす絶壁の南側下なり。余等之を長次郎谷と命名す」とあります。さらに、2年前に柴崎自身が登頂したかの疑問がもたれています。余記に「柴崎測量員登山の真偽」として陸地測量部の測量に参加した人夫の宮本金作の談話から推測して「柴崎氏は前後両回共に参加せざりしと、事の真否は尚世評の判断に任せんか、今聞知したるまヽ、採録す、もとより敢て紛議を惹起すの意にあらず、物云はざれば腹ふくるヽの感あればなり」とあります。[吉田孫四郎:越中劒岳「山岳」5年1號 日本山岳会 1910.3 p24-42]
吉田の疑問にたいして、1911年(明治44)の「山岳」で柴崎はつぎのように釈明しています。「余偶た去る四十年、任を此の地境に得て、立山を測地の中央に措き半歳以上に亘り、其峰巒窮谷の際に棲遲せり、就中剣嶽は之れに登るの前、巳に其の四周を前後縦横に跋捗し、以て同山登捗の而かく難ならざるを判知せり、當時余の顧念する所は、唯測量の建標、及標石運搬の能否如何の一事にありしのみ、即ち測夫、生田に命じて、之が査察を爲さしめしを、登山の第一回とす、然るに果して地勢不可にして三等建標の布設を許さず然るに此の好地點を委棄して、空疎の儘に措かんか、我か測量の効果に多大の影響あるを以て、測量上の判定を下すべく、則ち第二回に測夫木山を率ひて、自ら登山し、以て四號三角點の建標を建設することに決定したり...」。のちに柴崎は1913年(大正2)、日本山岳会に入会しています。[柴崎芳太郎:本誌五年の第一號所載劍嶽登山の記事に就いて「山岳」6年1號 日本山岳会 1911.5 p178-182]
柴崎の登頂時に案内人であった、宇治長次郎が登頂したことについても疑問がもたれました。前述した1908年(明治41)の「山岳」に掲載された小島烏水による「越中剣岳先登記」にも長次郎の名前は載っていません。安川茂雄による「増補近代日本登山史」では長次郎は吉田孫四郎一行の案内まえに、「この剣の絶嶮へは二度と行くまじと決心せしに、またなんの因縁ありてかくは導者の役を勤むるか」と述べています。[安川茂雄:増補近代日本登山史 四季書館 1976 p218-219]
高木菊三郎(たかぎ・きくさぶろう 1888~1967)の「山岳会と日本アルプス地方三角測量の思い出」1964年(昭和39)には第一回は柴崎が生田、山口、宮本、南川、氏名不詳を引率して登頂したが、氏名不詳の男は落伍して逃げたとあります。第二回には三角点測量標を建てるため木山、岩木を率いて登頂したことになっており、長次郎の名前は見られません。これは前記、「越中剣岳先登記」に載せられた富山日報の記事をそのまま引用したもので、検証がされていないようです。高木は1906年(明治39)に陸地測量部に奉職し、柴崎の後輩にあたります。また両者ともに、あい前後して日本山岳会にも入会しています。[高木菊三郎:山岳会と日本アルプス地方三角測量の思い出「山岳」58号 日本山岳会 1964 p158-169}
柴崎芳太郎のご子息である柴崎芳博は1980年(昭和55)の「山岳」で、富山日報の記事は「一行に対し感嘆を持って好意的に書かれていると思う。」、「長次郎にとって剱岳は登ってはいけない山という伝統的心情のため、雪渓を登りつめながら登頂を断念したというのが真実ではなかろうか。」と述べています。[柴崎芳博:劔岳登頂をめぐって ある疑問点について「山岳」75号 日本山岳会 1980 p167、p175]
柴崎らによる剱岳の登頂については以上の文献のほか、木暮理太郎「山の憶ひ出」(1941)、松村寿「剣岳先踏前後」山書研究(1966)、山崎安治「日本登山史」(1969)、五十嶋一晃「剱岳をめぐる謎や疑問を追う」山岳103号(2008)など多数ありますが、長次郎の登攀については定かではなく永久の謎になりそうです。
1977年(昭和52)に、新田次郎著「劒岳 点の記」が出版されました。この小説では柴崎らの行動が詳しく再現されており、三角測量の方法についても、わかりやすく解説されています。一回目の登頂は生田ほか、二回目は柴崎ほかで、宇治長次郎は二回とも登頂したことになっています。新田によれば、1907年(明治40)7月12日、生田信、宇治長次郎、岩木鶴次郎、宮本金作の4人、午前5時出発12時、登頂成功、測量旗を立てました。7月27日は柴崎芳太郎、木山竹吉、宇治長次郎、宮本金作、山口久右衛門、南川吉次郎の6人が午前5時に剱沢を出発、覘標を設置とあります。登頂日は陸地測量部の測量標原簿と観測手簿によれば13日と28日になっており1日のずれがあります。
小説であるため創作部分も見受けられますが、明治後期の測量、三角点の設置や陸地測量部の雰囲気もよく描写されています。たとえば「雷に当って死んだ話、岩壁から落ちて死んだ話、雪渓を歩いていて雪の割れ目に落ちて死んだ話、熊落としの穴に落ちこんで死んだ話、そのほかいろいろあるが、一番多いのは嵐にあって凍えて死んだ話だ(中略)だがそのような測量隊の苦労話は誰も知らない。地図などというものは、山の中をごそごそ歩いている間に自然に出来てしまうものだぐらいにしか世間では理解していない」などとあります。[新田次郎:劔岳<点の記> 文藝春秋 1977 p223-230、p240-243、p267-268]
新田次郎の「劒岳 点の記」は映画化され、2009年(平成21)6月に公開されました。監督、撮影は木村大作、柴崎芳太郎には浅野忠信、宇治長次郎には香川照之が、測夫の生田信には松田龍平、柴崎葉津よ(芳太郎の妻)には宮崎あおいが出演、原作者、新田次郎(本名は藤原 寛人ふじわら・ ひろと)の次男、藤原正彦(数学者)の夫人、美子さんや、そのご子息たちも出演されています。映画では時間的な制約もあり小説と異なる点が多々あります。実記録でも、小説でも登頂したのは、撰点と造標の二回でしたが映画では一回になっています。また小説では「山岳會」(のち日本山岳会)が登頂したことは触れられていませんが、映画では柴崎が登頂した数日後に、山岳會の小島烏水、岡野金次郎などが登頂しています。余談ですが富山の製菓会社では、映画化の機会に「劔岳点の記せんべい」が発売されました。[中村昌洋:劔岳 点の記 オフィシャルガイドブック 扶桑社 2009]
剱岳の測量
1907年(明治40)に陸地測量部の柴崎などにより剱岳に設置された三角点は四等三角点であり、点の記などの記録はありませんが、他点から剱岳の測標を観測した手簿や三角網図は国土地理院に残存しています。これらの記録によると剱岳からの観測はできず、剱岳の位置は北方稜線上にある白ハゲの二等三角点「大窓」、南仙人山の三等三角点「西千人」、剱御前の同「別山」、早月尾根の同「気和平」、黒部別山北峰の同「倉ノ助(一)」の周囲5点から前方交会法により水平位置が求めらました。前方交会法とは当該三角点上で観測を行わずに、近傍の三角点からの角観測により位置を求める方法であり、通常の三角測量に比べ精度は劣ります。剱岳の標高は「西千人」と「倉ノ助(一)」から高度角を測って2998.02メートルと算出しています。[国土地理院北陸地方測量部:柴崎芳太郎の測量成果「地図中心」2007.6 日本地図センター 2007 p10]、[陸地測量部:明治四十年度測回 三等三角網圖 測量掛柴崎芳太郎 冠字景 1907]
剱岳の標高は五万分一地形図「立山」には古くから掲載されていますが、最初に現れたのは1912年(大正1)測図、翌年発行の同地形図で2998メートルになっています。以降の修正測量では、山の高さは改測しないことになっていますが、1932年(昭和7)から1967年(昭和42)までに発行された同地形図では、3003メートルと表されています。これは地上写真測量により計測されたものであり、もともと標石のない標高点ですから、精度は期待できません。しかし、その後の修正測量による、1970年(昭和45)発行以降の同地形図では、もとに戻り2998メートルで表されています。これは航空写真と図化機による測定の結果です。また二万五千分一地形図は1970年(昭和45)に基本測量があり、2998メートルになっています。[国土地理院:剱岳測量100年記念 山岳集成図 剱・立山 日本地図センター 2007]
寺田寅彦著「天災と国防」のなかに「地図を眺めて」という編があり、当時公表が難しかったにかかわらず、陸地測量部から入手した資料をもとにして、代表的な高山の三角点の測量年度や測量者も載っています。このなかには剱岳が四等三角点として柴崎芳太郎の名前とともに記されています。同書には一等三角点「立山」の観測は古田和三郎陸地測量手とありますが、点の記では古田盛作になっています。[寺田寅彦:天災と防災 岩波新書 1938 p119]
剱岳の三角点は、柴崎らによる測量登山100周年の記念行事の一環として、2004年(平成16)8月に国土地理院により三等三角点「剱岳」の標石が埋設されました。すでに地形図が完備された時点で、国家基準点である三角点の必要性は少ないのですが、記念碑として、また地元や山岳関係者からも標高が3000メートルを越えるのではと、再測量が期待されていたため、三角点標石が設置されました。標石はわざわざ古い「三等」右書きのものが選ばれましたが、盤石は近年使用される軽量盤石です。雷鳥沢までは地元の人たちによって人力で、山頂まではヘリコプターで運び上げられました。剱岳の山頂は岩石ばかりですから、標石の埋設は容易ではありません。山頂にある祠の北東12メートルの地点で、岩と岩の隙間に深さ1メートルほどの空間のある場所が予備調査で見つけられ、ここに盤石と、その上に標石を設置して、周囲を岩石で固める方法がとられました。立山山麓の芦峅寺にある建設会社のネパール人石工が最後の石積みをしたそうです。[高橋敬市:剱岳に三角点設置「山と渓谷」山と渓谷社 2004.10 p9]、[山田明:剱岳に三角点を 桂書房 2007 p108-138]、[国土地理院北陸地方測量部:「剱岳」三等三角点設置終わる 「国土地理院広報」 国土地理院 2004.10 p7-8]
三角点設置後の測量によって、三角点位置での標高は2997.1メートルと2004年(平成16)10月に国土地理院北陸地方測量部から発表されました。このとき、新設の三等三角点「剱岳」の標高を決定ために、隣接の既知点2点をGPSで観測しました。既知点2点とは三等三角点「西千人」と同「別山」です。当初は三等三角点「気和平」も候補にありましたが、その当時、標石が不明で使用されませんでした。しかし2007年(平成19)には存在が確認されています。剱岳直下のジオイド高は「日本のジオイド2000」によれば41.84メートルです。三角点直下のジオイド高は「日本のジオイド2000」のメッシュ・ファイルをもとにして、それぞれの三角点の座標値から補間計算により求めることができます。今回は山頂での重力測定は実施されず、ジオイド高の補正は行なわれませんでした。剱岳だけでなく周辺の山々の標高にも影響がおよび、従来からのバランスが崩れるからです。2997.1メートルの計算手順は
(1)「西千人」と「別山」の既知標高値に、それぞれの三角点直下のジオイド高を加え、地球の近似モデルであるGRS80からの楕円体高を算出、与点としました。「西千人」と「別山」の標高は明治時代の角観測で求められた値であり、ジオイドモデルの精度の影響を受けていません。
(2)「西千人」と「別山」の楕円体高を固定して三次元網平均計算で「剱岳」の楕円体高を計算し、3038.91メートルを得ました。GPS測量の平均計算は地心直交座標系でおこなうのでXYZへの変換過程で各三角点の楕円体高を用いています。
(3){楕円体高}-{ジオイド高}={標高}の式に当てはめ 3038.91-41.84=2997.07 メートルとなります。
点間距離が5キロメートル程度の「剱岳」、「西千人」、「別山」のジオイド高の持つ誤差は同程度と考えられるので、既知の「西千人」、「別山」の標高にジオイド高を加えて楕円体高を求めGPS測量によって得られた「剱岳」の楕円体高からジオイド高を引き標高を求めるという過程で、ジオイド高の誤差は相殺されると考えられます。GPS測量とともに周辺の三角点から高度角と距離を測定し比較することも計画され「剱岳」にはトータルステーションを、「別山」では経緯儀まで持ち上げられましたが、当日は天候不順のため、この観測は取りやめになりました。
GRS80は「Geodetic Reference System(測地基準系)1980」のことで、地球を近似する回転楕円体のモデルであり形状や大きさが決められています。日本の測量の基準となる楕円体はこのGRS80で表します。「日本のジオイド2000」は測量法にもとづき国土地理院が発表しており、各地の重力観測データなどから得られたジオイド起伏をGRS80により補正し、2キロメートルメッシュに数値データ(ジオイド高メッシュ・ファイル)として記録されています。座標値で示された任意の位置でのジオイド高を、このファイルから補間計算により求めるソフトウェアも用意されています。
剱岳に新設された三等三角点の位置は最高点ではありません。最高点は三角点から約12メートル、山頂にある祠西端の岩で2999メートルになっており新設三等三角点から直接水準測量により測定されました。また1907年(明治40)、柴崎はじめ陸地測量部による四等三角点の測標の位置は新設三等三角点と最高点間のほぼ中心で北寄りになると推定されました。[上西勝也:剱岳の標高 「支部だより」 No.90 日本山岳会京都支部 2008.3 p1-4]