淀川のあらまし
淀川は琵琶湖から流れ出る河川で、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変え大阪湾に注いでいます。琵琶湖南端の瀬田から延長75.1キロメートルあります。しかし琵琶湖に流入する河川の最遠地点になる、滋賀県と福井県の県境に位置する、栃ノ木峠から琵琶湖をへて大阪湾までは170キロメートルになります。琵琶湖に注ぐすべての河川も淀川水系として扱われています。さらに、木津川や淀川の分流である神崎川に合流する安威川や猪名川なども淀川水系に含まれます。
大阪湾の工事基準面
大阪湾の工事基準面はO.P(Osaka Peil)といい、大阪湾の最低潮面になっています。平均潮面ではありません。河川工事を行うときに平均潮面をゼロとすれば工事に必要な高さはプラスやマイナスの数値が混在し煩雑になるため「工事基準面」は最低潮面をゼロとされました。
O.Pの由来は明治初期の大阪港の建設に際して、旧砲台内灯台下船溜所に量水標を設けてお雇いオランダ人デ・レイケ(Johannis de Rijke 1842~1913)が潮位の観測をしました。そのとき1874年(明治7)中の最低潮位が同量水標で9寸6分であったので、この点をO.Pゼロと定義し水準測量の基準面としました。1886年(明治19)、大阪港の深浅測量の開始にあたり旧砲台に「旧砲台元標」の標石を設けて、この下6.75尺(2.455メートル)をO.Pゼロと定義されました。その後、天保町元標などいくつかの基準標が各地につくられましたが、1907年(明治40)に淀川毛馬閘門の完成にあわせ、毛馬基標(毛馬元標とも)が設置されました。当初の毛馬基標は現在、残置されている位置から東北東20メートルの地点になります。
1935年(昭和10)には、毛馬洗堰下流右岸岸壁の最下端の隅笠石にある釘打の頂点として、O.P+4.697メートル(15.5尺)と定義されました。O.PとT.Pの関係も何度か変わりましたが、1956年(昭和31)から近畿地方建設局内では1.20メートルの換算値を採用していました(O.P=T.P+1.2メートル)。1966年(昭和41)にはO.P基準標を茨木市大字福井にある国土地理院の基準水準点「基21」に移し、その標石下65.4235メートルをO.Pと定めることになりました。T.Pを基準とした高さをO.Pを基準とする高さに換算するときは、T.Pに1.30メートルを加えます。(O.PゼロメートルはT.Pより1.30メートル低くなります。)[建設省近畿地方建設局:淀川百年史 1974 p1724-1727]
大阪市長柄 淀川毛馬基標
淀川毛馬基標は大阪市北区長柄の毛馬橋(地形図:大阪東北部)の北にあり、淀川とその水を大阪市街にとりいれている、大川の分岐点にあたります。淀川工事事務所毛馬出張所の北に旧毛馬閘門などが見られる公園があり、背の高い淀川改修紀功碑の前に囲いがされており、旧毛馬基標の表示と説明板があります。毛馬基標にはBMOP.15.50、4.697Mと刻字されていますがBM(ベンチマーク)15.5尺、4.697メートルを表しています。標高の変動や毛馬閘門の改築工事のため基標としての役割がおわり、1960年代から現位置で記念として保存されています。この位置は国土地理院の基準水準点111号ともされていましたが、現在は地図にも掲載されてなく、成果使用不可となっています。
大津市 瀬田唐橋の滋賀県基標
瀬田唐橋(地形図:瀬田)の中之島には一等水準点第211-1号がありますが、隣接して滋賀県の標石が見られます。大きさは一辺18、地上高さ27センチメートルの花崗岩で上面には一辺9センチメートルの薄い十字が刻まれ側面の刻字は縦書きで東面「基標Ⅱ」、西面「滋賀縣」と読めます。瀬田川にあることから河川管理のため設置したものかと思われますが、上面の+刻印から察すると水準点でないかもしれません。保護石は一個あります。
この標石から北50メートル上流側には、明治時代に設置された鳥居川水位観測所が残置(何度か建て替えられたか)しています。当時の量水標(自記水位計)が展示されています。量水標の標高は84.371メートルで琵琶湖水位の基準高になっており、大阪城の天守閣と同じ高さと説明板にありました。
大津市 瀬田川距離標
淀川の上流にあたる瀬田川洗堰下流(地形図:瀬田)の距離標です。数字は河口からの距離を表しているようです。瀬田川は琵琶湖を水源として京都にはいり宇治川と名前をかえ淀で桂川、木津川と合流して淀川となり大阪湾に注いでいます。幹川の流路延長が75キロメートルで日本の代表的な河川としては短い方です。最長は信濃川で367キロメートルです。
大津市下阪本 若宮神社の水準点
JR湖西線「比叡山坂本」から東へ700メートル、琵琶湖に向かって下ると、比叡辻という旧街道の交差点東に若宮神社があります。所在地は大津市下阪本六丁目5(地形図:草津)になります。この神社本殿の裏に滋賀県の水準点が見られます。大きさは一辺18、地上高さ13、球分体の直径6センチメートルの花崗岩の標石で、刻字は東面に几号と「W.No4」、西面には縦書きで「滋賀県」とあります。琵琶湖周辺に、これと類似の水準点が多く見受けられますが、琵琶湖の水位測量と関係があるように思われます。
大津市下阪本 志津若宮神社の水準点
若宮神社から南へ1.7キロメートルのところ旧街道に面した大津市下阪本一丁目27(地形図:草津)に志津若宮神社があります。この神社の正面鳥居の内側左に、比叡辻の若宮神社にある標石と同形状の水準点が見られます。大きさは一辺18、地上高さ5、球分体の直径6センチメートルの花崗岩の標石で、刻字は地中に埋もれていていましたが、東面をすこし掘ってみると几号と「W.No7」が確認できました。西面は調べていませんが「滋賀縣」と思われます。
この志津若宮神社から800メートル北の大津市下阪本四丁目9には、酒井神社がありますが、境内には「琵琶湖洪水石標」が見られます。説明板によると、このあたりは瀬田川洗堰が完成する1905年(明治38)までは、ほとんど毎年、洪水の被害がありました。明治維新後も4回の大水害がありましたが、1896年(明治29)9月12日の大洪水では、酒井神社付近で水位は4メートル近く(1874年(明治7)に決定された琵琶湖の基準水位からか)あり、石標にはその最高水位が線でしるされています。石標の他の側面にも、以前の主要な洪水水位が表示されています。1965年(昭和40)に大津市の指定文化財になっています。石標の元位置はここではなく、近傍から移設されたようです。
彦根市松原 彦根城近傍の水準点
彦根城のすぐ北にある総合運動場(地形図:彦根西部)の西、松原一丁目6の三叉路東角に几号付きの水準点があります。集落南端から北東へ一筋目を北西に入ったところです。標石の大きさは一辺18、地上高さ75、うち整形部高さ36センチメートルで上面には直径5センチメートルの球分体があります。北面には几号とその下に「E」、「No73」の刻字が見られます。几号の横棒は5.5、縦棒は4センチメートルあります。この標石の几号は上面に球分体のあることから単に測量のシンボルとして刻印されたようです。
この標石に隣接して「井伊水軍水主町跡」の碑がありますが、1985年(昭和60)に彦根史談会によって建立されたものです。標石のある松原一丁目はかつては彦根城下の水主町(かこまち)といわれ彦根藩の米蔵があったり、商人、藩専用船を扱う船乗りが住むところで、琵琶湖とつながった濠に隣接していました。また現在の総合運動場は琵琶湖とつながった内湖があり、1910年代(大正初期)から埋め立てられました。この埋め立てと周辺排水の関係で水準測量が必要であったと考えられます。滋賀県の河川には同類の標石が見られます。
近江八幡市北之庄町 北之庄神社の水準点
近江八幡市の湖岸に近い八幡山の西山麓に北之庄町(地形図:近江八幡)があります。集落の北西に北之庄神社があり、神社の東側、狭い道路に沿って北へ100メートル進むと西側の民家前に几号付きの水準点が見られます。
標石の大きさは一辺18、地上高さ19センチメートルで上面には直径6センチメートルの球分体があります。東面には几号とその下に「ENo45」の刻字、西面には「滋賀縣」の刻字が見られます。几号の横棒は7、縦棒は4.5、横棒の地上高さは15センチメートルあります。
北之庄町は古い集落ですが、すぐ西には低湿地の田圃や「西の湖」があり、水流は長命寺から琵琶湖に注いでいます。圃場整備や灌漑工事のために大正から昭和初期頃に滋賀県が設置した水準点と思われます。
近江八幡市田中江町 八幡神社の水準点
JR「篠原」の北2.5キロメートルにある近江八幡市田中江町集落(地形図:近江八幡)のはずれ、稱念寺北隣の八幡神社境内に几号付きの水準点が見られます。神社正面の鳥居前の右側の灯篭の東南3メートルにあります。さらに右には現行の二等水準点1906号 が設置されています。国と県の両方の水準点がならんだ滋賀県内では珍しいケースです。
標石の大きさは一辺18、地上高さ20センチメートルで上面には直径6センチメートルの球分体があります。北面には几号とその下に「ENo32」の刻字、南面には「滋賀縣」の刻字が見られます。几号の横棒は7、縦棒は4.5、横棒の地上高さは16センチメートルあります。
この位置から南西1.2キロメートルのところには日野川が流れており、河川管理のためか、あるいは圃場整備や灌漑工事のために、大正から昭和初期頃に滋賀県が設置した水準点と思われます。日野川は淀川水系の一級河川で鈴鹿山脈に発し滋賀県蒲生郡から近江八幡市と野洲市の境界となり琵琶湖へ注いでいます。
田中江町は「江」の字があるように、かつては琵琶湖が入り込み、入江になっていました。八幡神社に合祀されている船寄神社は田中江港の守護神であったと伝えられています。
近江八幡市野村町 野村神社の水準点
日野川が琵琶湖に注ぐ河口から上流2.5キロメートルのところ、近江八幡市野村町(地形図:近江八幡)の中心に野村神社があります。この神社正面の掲示板左に几号付きの水準点が見られます。この水準点とは別に鳥居の北にある灯篭の前には現行の二等水準点1903号 が設置されています。
標石の大きさは一辺18、地上高さ10センチメートルで上面には直径6センチメートルの球分体があります。北面には几号とその下に「ENo30」の刻字、南面には「滋賀縣」の刻字が見られ同市田中江町八幡神社の滋賀県水準点と同じ形式になっています。
野村神社が「No30」、八幡神社が「No32」なので「No31」がその中間にあるはずです。小田町の小田神社は現行水準点1905号もあることから注目しましたが発見できませんでした。
野洲市五条 兵主神社参道の水準点
JR「野洲」の北5キロメートルの地点に兵主(ひょうず)大社(地形図:近江八幡)があり、この地域の氏神として古くから信仰されています。兵主神社を含め一帯が「五条」、「六条」といわれ地名に条里の名残をとどめています。国道477号と県道32号の交差点北西に神社の石鳥居があり、ここから本殿まで300メートルの間、よく手入れされた松並木の参道がつづいています。鳥居から100メートルの参道の東側に水準点が見られます。18センチメートル角、地上高さ18センチメートル、上面には直径7センチメートルの球分体がある花崗岩の標石です。東側面には几号「不」の字が、北側面には「滋」と刻印されています。几号は横棒、縦棒とも6センチメートル、横棒の地上高さは15センチメートルありますが、上面に球分体のあることから単に測量のシンボルとして刻印されたようです。
この水準点標石の設置時期や目的が分かりませんが、南の野洲川と北の日野川に挟まれた地域にあり、琵琶湖岸にも近く高低差が少ないため、洪水対策や、灌漑、排水工事に利用されたと考えられます。参道入口の鳥居に隣接して東側に別の水準点があります。12センチメートル角、地上高さ14センチメートル、上面には+印のある金属ボルトが埋め込まれた粗雑なコンクリート柱です。
京都市上高野 高野川の距離標
京都市上高野花園橋上流(地形図:京都東北部)にある距離標です。13センチメートル角、地上高さ26センチメートルのコンクリート柱で道路側に「高野川」反対の川側に「4.2」と刻字がみられます。高野川は大原の途中峠を起点とし賀茂川との合流点まで延長19キロメートルの一級河川になっています。全線が京都市左京区になります。
京都市加茂大橋 高野川の距離標
京都市加茂大橋(地形図:京都東北部)のすぐ上流東側にある距離標です。高野川と鴨川の合流点にあたり高野川の終点になり、ここから先は鴨川となります。12センチメートル角、地上高さ(川側)34センチメートルのコンクリート柱で道路側東面に「高野川」、川側西面に「0.0」の刻字がみられます。河川の距離標は河口または合流点をゼロポイントとします。上面には直径2センチメートルの金属鋲が打ち込まれています。この標石の真向かい、高野川と賀茂川に挟まれる中洲に同じ標石があります。
京都市加茂大橋 鴨川の距離標
京都市内加茂大橋(地形図:京都東北部)のすぐ上流西側の河原にある距離標です。高野川と鴨川の合流点にあたります。12センチメートル角、地上高さ28センチメートルのコンクリート柱で道路側西面に「鴨川」東面に「12.2」の刻字がみられます。上面には直径2センチメートルの金属鋲が打ち込まれています。鴨川は京都市北区雲ケ畑の出合橋付近を起点としますが、水源は桟敷ヶ岳や魚谷山になります。祖父谷川、岩屋川、中津川、鞍馬川などと合流し、京都市街をへて南区十条通陶化橋で高瀬川と合流、さらに伏見区横大路の羽束師橋で桂川に合流しますが、起点から合流点まで27キロメートルになり、さらに最終は淀川になります。慣例として、加茂大橋の高野川との合流点より上流は賀茂川または加茂川と、下流を鴨川と表記されます。
京都市 桂川の距離標
桂川の上野橋(かみのはし、地形図:京都西南部)上流の堤防に四等三角点「上桂」(西京区松尾吾田神町)32.2メートルがありますが、近傍に距離標が見られます。距離標15.0キロメートルの表示があり、2000年6月まで使用された旧距離標(金属標)も残置されています。15.0キロメートルは桂川、宇治川、木津川の三川合流点からの距離です。標石の側面には「桂川、かつらがわ」と毛筆体であり、これを書かれた作者の名前も金属プレートに刻字されていました。
桂川は京都市左京区広河原の佐々里峠を水源として、左京区花脊を南流し、右京区京北地区を西へ、南丹市の世木ダム、日吉ダムをへて亀岡市に入り、保津峡から嵐山を通り伏見区で鴨川と合流して最終は淀川となります。
京都市伏見 金井戸神社の水準点
京都市伏見区三栖向町(みすむこうちょう)、京阪電鉄「中書島」の西300メートルには金井戸神社(地形図:京都東南部)があります。この神社本殿の東に小祠があり南側に隣接して水準点標石が見られます。一辺15、地上高さ18センチメートルの花崗岩で上面には直径10センチメートルの球分体があります。刻字は西面に「内務省」、東面に「増20」とあります。設置場所、形状や刻字から察すると昭和初期に内務省が淀川水系の河川管理のために設置した水準点標石と推測できます。
神社のすぐ西側には宇治川派流の濠川(ほりかわ)が流れており400メートル下流で宇治川本流に注いでいます。1929年(昭和4)、内務省により合流地点に三栖(みす)閘門が建設され大阪と京都をつなぐ交通要路となりましたが陸上輸送の発達により1962年(昭和37)頃、その役割は終わりました。付近一帯の河川敷は美しい公園になっており閘門も当時の技術遺産として保存されています。
京都市伏見 宇治川の三栖量水標
伏見は淀川水運の港として栄えましたが1922年(大正11)から宇治川築堤のため通航に支障をきたし1929年(昭和4)内務省により濠川(ほりかわ)と宇治川の合流点に三栖(みす)閘門(地形図:京都東南部)が建設されましたが陸上輸送の発達により1962年(昭和37)頃その役割も終わりました。宇治川側ゲート東に量水標があります。一辺15、地上高60センチメートルで上面に直径3センチメートルの金属製球分体のあるコンクリート柱で北面に「三栖量水標」南面に「建設省」の刻字があります。
京都府久御山町 室城神社の水準点ほか
京都の南部、久御山町役場のすぐ南東にある「久御山田井」の信号から南へ農道を700メートル、木津川大橋と木津川橋(第二京阪道路)の間の右岸堤防の下に室城(むろき)神社(地形図:淀)があります。正面の「式内室城神社」碑の後ろ、手水鉢の右隣に内務省の水準点が見られます。花崗岩の標石で一辺15、地上高さ33センチメートル、上面は丸みを帯びて球分体はありません。刻字は北面に微かに「内務省」、南面に「BM 2」(BとMの間の点は不明)と読めます。
室城神社正面左手(北西)の小鳥居奥にべつの標石があります。東西辺長22、南北辺長20、地上高さ66センチメートルの花崗岩で上面中央に直径3、長さ6センチメートルの鉄棒が固定されています。標石南面には上面から6センチメートルの位置に横線が幅いっぱいに刻されています。過去洪水時の最高水位を横線が表示していると思われます。その下には「木津川床ヨリ 水量標」の刻字、東面には「大正四年七月建之」の刻字が見られます。過去に大洪水があり伝承の参考に建てられたようです。「水量標」は各集落に建てられ第二次大戦中に上面中央の鉄棒は切断、供出されました。[久御山町史編さん委員会:久御山町史 第二巻 京都府久御山町 1989 p644]
「久御山田井」の信号から国道1号を北へ400メートルの西に荒見神社があり正面右手の高札と常夜灯の間にも室城神社とおなじ「木津川床ヨリ 水量標」の標石が見られます。下部が埋没、地上高さは42センチメートルでした。高札前には近年設置された水準点があります。一辺15、地上高さ7センチメートルのコンクリート柱で上面に直径4センチメートルの金属球分体があります。
現久御山町一帯は京都を流れる宇治川、木津川、桂川の三つの大きな川の合流地点に近くに位置して、宇治川が流れ込む巨大な巨椋池(おぐらいけ、大池とも)もあり、古くから水害に悩まされていました。1885年(明治18)の大洪水とこれにつづく水害のため1896年(明治29)から明治末期まで木津川、宇治川の付け替え、1933年(昭和8)から1941年(昭和16)にかけ巨椋池の干拓などが行われました。室城神社の旧社地は1914年(大正3)の木津川改修工事で買収され、現在は木津川の底になっています。[久御山町史編さん委員会:久御山町史 第一巻 京都府久御山町 1986 p183]
宇治川、木津川、桂川は現在、京都府八幡市、同大山崎町、大阪府島本町などにまたがる「三川合流地点」と呼ばれる場所で合流して淀川となり、大阪湾へと向かっています。しかし、江戸中期の絵図「伏見川之図」(京都産業大学蔵)によると、現地点より上流の淀城付近で合流しています。江戸時代には淀の城下町を形成するため、木津川の付け替えが行われましたが、本格的な水害対策は明治以降になり、巨椋池の干拓とともに流路や合流地点の移動、「背割堤」の設置が行われ、その結果、三川合流地点は現在地に落ち着いています。
八幡市 宇治川背割堤の距離標
京阪電鉄「八幡市」から北へ徒歩10分御幸橋を渡ると木津川、宇治川の合流点である「背割堤」(地形図:淀)に到達します。東西1.4キロメートルの堤は桜の古木が250本植えられ公園になっており数々の河川標識が見られます。
背割堤の西端でまず木津川と宇治川が合流し、すぐ先で桂川が合流します。真上の距離標は木津川の末端で「三川合流点から0.0kmの表示があります。「三川合流点」の「三川」は桂川、宇治川、木津川のことで、これらが合流して淀川になります。
宇治川の距離標はこの背割堤にありますが「河口から37.0km」とあることから三川合流点からでなく大阪湾の河口からになっています。琵琶湖から流れ出た水は瀬田川、宇治川、淀川と名前をかえて大阪湾に注ぎます。
八幡市岩田 石田神社の水準点ほか
木津川の左岸、八幡市民体育館から南にある県道三差路を越え「東岩田」の信号を東に入ると、木津川堤防の手前に石田神社(地形図:淀)があります。竹の森に囲まれた神社で遠くからでもすぐにわかります。長い参道を進むと鳥居の手前、左(西)側の電柱の下に内務省の水準点が見られます。花崗岩の標石で一辺15、地上高さ30センチメートル、上面は丸みを帯びて球分体はありません。刻字は南面に「内務省」、北面に「B.M 4」と読めます。標石は地面すれすれのコンクリート基盤に載っています。また「務」と「4」の刻字下のところにクラックがあり触るとすこし揺れました。
石田神社には内務省水準点のほかに、もうひとつ標石があります。参道入口には台座北面に「岩田村」(右書き)と彫られた灯篭が2基ありますが、東側灯篭の前に花崗岩の標石が見られます。一辺15、地上高さ5センチメートルで上面には対角線が全面に刻されています。側面を少し掘りましたが南面に「京」、西面に「基」が微かに読める程度で舗装道路にも接しており固くて、これ以上は掘れませんでした。標石の北面はかなり損壊しています。この標石の素性は不明ですが城陽市水主(みずし)神社にも同じ標石がありました。こちらのほうは「京都」、「基標」と読めます。
京都府伏見区淀生津 木津川距離標
淀から宇治川に架かる淀大橋をわたり生津(なまづ)集落(地形図:淀)の天満宮から木津川の堤防に上がり200メートルほど下流に向かったところにあります。角錐上部を切った形で上面には+印の金属標が埋め込まれ上流(東)面には「木津川」、北面には「三川合流点から3.0km」、下流面には「きづがわ」と刻字があります。標柱の北側には「旧距離標 2000年6月まで」とある金属プレートと+印の金属標があります。「三川合流点」の「三川」は桂川、宇治川、木津川のことです。
京都府精華町祝園 木津川距離標
精華町祝園(ほうその)の東、木津川に架かる開橋(地形図:田辺)のすぐ南、左岸にある距離標です。「三川合流点」から20キロメートル上流の地点になります。この位置から川の中心部にかけて河川敷、河床に3ヶ所、巨大な水位標尺が一直線に並んだ量水標が見られます。河岸から水準儀で視準観測するためのものと思われます。
城陽市 水主神社の京都基標
近鉄「富野荘」の西1キロメートル、西城陽高校の正門から西へ木津川堤防手前に水主(みずし)神社(地形図:宇治)があります。正面参道奥の鳥居、左側脚の前に標石があります。一辺15、地上高さ11センチメートルで上面には対角線が全面に刻されています。側面を少し掘り北面に「京都」、東面に「基標」の刻字を確認しました。これ以上深く掘れなかったのですが下には文字はないようです。この標石の素性は不明ですが八幡市東岩田の石田神社にも同じ標石がありました。上面に×印があることから水準点ではなく耕地整理の際に設置したのかも知れません。
京都府が設置したものかどうか不明ですが、1899年(明治32)の「河川測量標心得」によれば河川測量標点は基標(水準点)、測標(三角点)、町杭(距離標)、支距標(図根点など)の4種になっています。( )内は類似する現在の用語です。[京都府内務部長通牒:河川測量標杭取締の件 明治三十二年七月十日 各町村役場宛 京都府 1899]
京都府では1896年(明治29)淀川、桂川、木津川などが河川法施行河川として告示され、正確な測量にもとづく「河川台帳」が作成されています。木津川については河川台帳図面が「京都府京都土木工営所文書」として京都府総合資料館に所蔵されています。1903年(明治36)頃、京都府内務部第二課により作成された千二百分一台帳図面(略式)3点と1909年(明治42)頃、同内務部土木課により作成された三千分一台帳図面(正本)3点など関連図面を調べてみました。いずれも畳一枚程度の大きい「蝋布」といわれる紙のような布に河川に沿った地形が墨で描かれています。正本の方では要所には河川断面の高さも記入されています。測標(三角点)と思われる記号も一図面あたり40~80ヶ所あり朱で測線が記入されおり、このことから測標は三角鎖を形成していることがわかります。現況と地形が変わっているので現行の地形図に合わせることは難しいのですが、現在見られる石田神社や水主神社の「京都」、「基標」の刻字がある標石の位置にはなにも記入がないようです。
京都府山城町上狛 泉橋寺の水準点
JR奈良線「上狛」の南700メートル、木津川に架かる泉大橋の手前に泉橋寺(地形図:奈良)があります。山門右手(南側)の掲示板裏に内務省の水準点が見られます。花崗岩の標石で一辺15、地上高さ22センチメートル、上面は丸みを帯びて球分体はありません。刻字は北面に「内務省」、南面に「B.M 11」が確認できました。
門前の説明板によると泉橋寺は奈良時代、木津川に架けられた泉大橋を守護、管理するため行基によって建立されました。山門前の北側には巨大な地蔵石仏が安置されています。
木津川は淀川の大支流で流域は奈良、三重、京都にまたがる一級河川です。古くから大洪水による被害が絶え間なかったのですが、1917年(大正6)の洪水を契機として加茂町と対岸の瓶原(みかのはら)村(ともに現・木津川市)から淀川合流地点まで32キロメートルにわたって内務省直轄の大規模改修工事が行われています。測量は1930年(昭和5)に開始され、工事は1932年(昭和7)から第二次大戦後まで行われました。「内務省」、「B.M」の刻字がある標石が各所に残存していますが、この頃に設置された可能性があります。[建設省近畿地方建設局:淀川百年史 1974 p578、584]
京都府精華町 祝園神社の水準点
JR片町線「祝園」(ほうその、近鉄「新祝園」も隣接)北東1.5キロメートルに木津川に架かる開橋(ひらきばし)があります。その手前、南に祝園神社(地形図:田辺)があり正面右の灯篭前、消火ホース箱の下に内務省の水準点が見られます。花崗岩の標石で一辺15、地上高さ7センチメートル、上面は丸みを帯びて球分体はありません。刻字は東面に「内」、西面に「B.M 10」が確認できました。東面のは消火ホース箱があるため掘ることができません。カメラを奥まで入れ「内」を確認しましたが、形状からも内務省の標石に違いありません。
木津川市 勝手神社の水準点
JR関西線「加茂」の西へ約1キロメートルのところに大野集落(地形図:田辺)があります。赤田川という木津川の支流に架かる橋を渡るとすぐに朱の鳥居が見えますが、それが勝手神社です。末社に春日神社があり鳥居に額には両社が併記されています。鳥居の奥、参道に沿い社務所裏の灯篭の山側に内務省の水準点があります。
一辺15、地上高さ18センチメートルの花崗岩で上面は丸みを帯びて球分体はありません。刻字は西面に「内務省」、東面に「B.M 14」とあります。標石の周囲は水分が多く少し掘ると水が湧きます。
木津川市 恵美須神社の水準点
恵美須神社は勝手神社から木津川を挟んで対岸にあたりるところです。直接、川を渡れませんからJR「加茂」の北にある恭仁(くに)大橋(地形図:田辺)を渡り堤防に沿って西に向かいます。神社正面の鳥居と手水鉢の向かいにある参道に面して内務省の水準点があります。神社境内と反対側にある畑の北西端にあたるところです。
一辺15、地上高さ16センチメートルの花崗岩で上面は丸みを帯びて球分体はありません。刻字は北面に薄く「内務省」、南面に「B.M 8」とあります。「内務省」の刻字は明瞭ではありませんが木津川筋の他の内務省標石と比較して字体が異なり小さいようです。
この神社には朱塗りの立派な本殿がありますが、べつに船に神輿を載せる「お渡り船神輿」も安置されています。
大阪市十三 淀川の距離標
大阪の十三(じゅうそう)大橋(地形図:大阪西北部)、南詰東南角にある距離標です。「淀川距離標 7.0km」の刻字があります。上面には丸い金属標が埋め込まれており+が刻印されています。形式は京都の桂川とおなじです。
尼崎市 猪名川の距離標
阪急電鉄「園田」(地形図:大阪西北部)の東南1キロメートルの地点で線路は猪名川を横断していますが、その南の堤防斜面上に距離標が設置されています。コンクリートの土台には「いながわ1.0K」と刻字があり標石上面には金属標が埋め込まれています。猪名川本流はすぐこの下流で藻川と合流し、さらに神崎川と合流し、やがて大阪湾にそそいでいます。この標石の位置は神崎川合流点から1キロメートルの位置になります。猪名川は兵庫県猪名川町大野山(地形図:福住)に源を発し神崎川と出会うところが終点です。
京都伏見に残る内務省の標識
京都市伏見区の観月橋から桂川、宇治川、木津川の三川合流地点付近までの間に、これらの河川が旧内務省の管轄であったであった名残りを示す標識があります。いずれも測量のため設置された標識ではありません。
京阪電鉄「中書島」の南西には三栖閘門(地形図:京都東南部)があり資料館には旧操作室の鬼がわらが展示されています。コンクリート製ですが内務省の紋章が刻まれています。また観月橋の北詰下流には維持区域標が残存されています、高さ1.5メートル程度の花崗岩の標柱で南面は「昭和六年四月一日 内務省」、西面は「淀川從是下至海」、北面は「淀川維持區域標」、東面は「京都市伏見區豊後橋町」と刻字されています。
同様の維持区域標はこのほか観月橋南詰(宇治川)、京阪電鉄「八幡市」近傍(木津川)、京阪電鉄「牧野」近傍(穂谷川)などにもあり河川の起点を明確にして管理境界を示したものと思われます。