府県主体の測量
官製府県図
明治維新後の測量は内務省、参謀本部など国の機関が主になって行われましたが、国の測量が待ちきれず、また局地的に細部の測量が必要なため、北海道はもとより府県など地方機関や民間が測量をした例が多々あります。地方独自のいわゆる「官版府縣図」も発行されており、これらは内務省地理局の図式によるものが多くありますが、経度の基準は個々別々です。国立国会図書館などで75種類の官製府県図が確認されています。[師橋辰夫:官版府縣図 「古地図研究」第1巻4号 日本地図資料協会 1970.6 p12-14]
京都府の測量工夫
京都府でも琵琶湖疏水の工事にともなう測量をはじめ府独自の測量が行なわれていました。1897年(明治30)の京都府の土木工区出張所で測量に従事する「測量工夫」が使用した、紺色で木綿の法被(はっぴ)の図が京都府の規程に載っています。年2回、6月には袷(あわせ)法被、10月には單(ひとえ)法被で、それぞれ股引(ももひき)がついていました。京都府では河川測量夫にも所定の被服が支給されました。測量工夫と同様の法被ですが左襟には「河川」、右襟には「測量」の染め出しがありました。[京都府 明治三十年訓令第八十九號 測量工夫被服支給規程 京都府内務部(明治三十年京都府府令達要約第十八編 1898 p214)]、[京都府 明治三十一年廳達第一三號 河川測量夫服務竝被服規程(京都府土木例規第四類 1936年 p54)]
網走市 北海道庁天測点
網走市にある天測点標石はもともと網走測候所にあり、2006年(平成18)頃に網走市庁舎に移設され放置されていましたが、2009年(平成21)から網走市内、天都山(地形図:網走)にある北海道立北方民族博物館に保管されています。
標石の大きさは正面の横幅29、奥行き21センチメートル、高さ89センチメートルの角柱で、安山岩のように黒色がかった材質です。刻字は正面に「天測點 北海道廳」、右側面に「明治二十六年一月」。左側面に「百二十四尺」と「不」(几号)の刻印があり背面は刻字、刻印はありません。また上面には直径12センチメートルの○に+刻印、底面には横幅12、奥行き10センチメートルの僅かに凹んだ窪みがあります。几号の横棒9、縦棒10センチメートル、横棒までの標石底辺からの高さは50センチメートルあります。
1893年(明治26)1月1日から2月7日まで、網走測候所において北海道庁による経緯度観測が行われていることから、その観測後に地点を特定するために設置した標石と思われます。[河野常吉:北海道地形測量史稿 北海道立図書館北方資料部 河野常吉資料407 自筆稿本 1900頃 丁付なし A4サイズでp54附近相当 北海道立図書館蔵]、[高倉新一郎:明治以後の北海道測量史「北方文化研究報告」第18輯 北海道大学北方文化研究室 1963 p36]
当時、全国の三角測量は陸地測量部により開始されていましたが、東京の経緯度原点から北海道へはまだ連系されていませんでした。そこで正確な地形図を早期に必要とする北海道庁は陸地測量部に先がけ測量を行い、主要な位置を天測により把握したと思われます。道庁による測量は1886年(明治19)から1890年(明治23)にかけて広大な土地を分割して行い、その後、増毛、釧路、札幌、浦河、網走、稚内で天測を行っています。測候所に観測点が設けられたのは測候所が道庁の管轄する機関であり、かつ観測成果である経緯度が測候所の正確な位置を把握するために必要としたと考えられます。[北海道廳編:北海道廳第十回勧業年報 明治廿八年 北海道廳 1896 p8]
網走測候所は1889年(明治22)、北海道庁第二部地理課所属として網走外三郡役所内に創立され、翌年には現在地に庁舎が移っています。1939年(昭和14)以降、国に移管されています。1951年(昭和26)頃の建物配置図には天測点の位置が明示されていますが、当時の写真には標石は見当たりません。[網走地方気象台:網走気象百年史 網走地方気象台 1989 p10-11]
北海道庁による測量は1896年(明治29)刊行の「北海道地形圖」で一応の完成をみましたが、まだ精密さに欠けていました。これ以降は陸地測量部へ引き継がれ1900年(明治33)に北海道の一等三角測量、一等水準測量が開始され全国統一された方法で測量が実施されることになりました。 [高倉新一郎:明治以後の北海道測量史 「北方文化研究報告」18輯 北海道大学北方文化研究室 1963 p45-46]
この標石には几号が付刻されていることから、内務省直轄の行政組織である北海道庁による測量で使用された標石であることが読み取れます。几号は1876年(明治9)頃からお雇い英国人の指導により内務省の水準測量に用いられていますが、北海道で几号標石が見つかったのは、網走市の天測点がはじめてと思われます。[上西勝也・笹倉いる美:明治中期の北海道庁測量標石「網走天測点」北海道立北方民族博物館研究紀要 第20号 2011 p81-96]
東松島市大高森 測點
JR仙石線(せんせきせん)「野蒜」(のびる)から南へ4キロメートル、橋でつながっている宮戸島(みやこじま)に、大高森(おおたかもり、地形図:小野、東松島市宮戸)という標高106メートルの丘があります。頂上は展望台になって、いろいろ石碑があり二等三角点「大高森」もありますが、これとは別に「測點」と刻字のついた標石があります。三角点から屋根つきの休憩所をはさんで反対側の高さ1メートル程度のマウンド上に「明治廿九年 宮古村」と刻字された雷神塔や方位盤などと一緒に設置されています。
一辺17.5センチメートル、地上高さは30センチメートルの角柱で、頂部はすこし丸みがあります。標石の東面は「測點」、南面はアルファベットのAに似た記号と「第八号」、西面は「宮城縣」と刻字があり、北面には、なにもありません。刻字から察すると宮城県が設置したと思われますが、海岸近くにあることから漁業関係の標石かも知れません。
大崎市 宮城県標石
大崎市小牛田(こごた)の南西10キロメートルの石幌山(地形図:鹿島台、大崎市鹿島台)に宮城県の標石あります。この位置には現行の四等三角点「貝抜沢」と御料局二等三角点が併設されています。
一辺16センチメートル角で頂部が盛上り、3センチメートルの角錐になっています。地上高さは23センチメートルで石材は花崗岩でなく、黒っぽい石です。刻字は東面に「明治二十六年」、南面に「第百八十六号」、西面に「宮城縣」とあります。
仙台市太白区向山 宮城県標石
JR「仙台」、南1キロメートルの小高い丘にある愛宕神社(地形図:仙台東南部)本殿前の展望台の北東角には、同神社に残存する内務省の経緯度測点がありますが、それとはべつの標石が雨水枡のなかにあります。標石は一辺15センチメートルの角柱で頂部(角錐)は地表面から5センチメートル下になります。雨水枡の底の地表から20センチメートル露出していました。南面には縦書きで「仙臺」の文字まで見られましたが、雨水枡が狭く掘ることもできませんでした。この位置は經緯度測點の元位置から西へ約50メートルの地点にあたりますが、經緯度測點に関係はないようです。
明治以降に公表にされた仙台の地図では陸地測量部1888年(明治21)測量の二万分の一「仙臺」がもっとも古いのですが、愛宕山の位置には標石の印はなく、65.4メートルの標高が示してあるだけです。この地図の標高は東京湾を基準としています。一方、仙台市制が施行された1889年(明治22)の4年後に発行された、仙臺市役所1893年(明治26)の「僊臺市測量全圖」(僊の字の「巳」は原図では「山」)には愛宕山の位置に薄っすら赤い○印があり凡例による「測點」であることを、あらわしています。標高はこの位置にはありませんが、ほかの位置では塩竈湾を基準として朱書きされています。この地図の○印は内務省が設置した「經緯度測點」でなく宮城県か仙台市が設置したこの標石の可能性があります。
新発田市小坂 耕地整理三角点
新潟県新発田市の南、JR「中浦」の東にあたる低い丘(地形図:天王、新発田市小坂)に三等三角点「小坂」がありますが、その北西2メートルのところに新潟県が耕地整理のために設置した角錐形の測量標石が見られます。 上辺10、下辺16センチメートル、高さ30センチメートルの角錐で、上面には東西、南北方向に×が全面にわたり刻印されており、南西面は「耕地整理」、南東面は「三角標(または點)」、北東面は「新潟縣」と薄い刻字が見られ、北西面は刻字はありません。この標石に類似したものは1907年(明治40)、新潟県が定めた「耕地整理基本調査細則」にあります。[新潟縣:新潟縣耕地整理案内 新潟縣 1907 p53]
耕地整理とは分散している耕地をまとめたり、区画整理や道路、用水路などを整備する事業のことですが、1909年(明治42)に「耕地整理法」が制定され、近世以前の農地の状態が大きく変わりました。1949年(昭和24)に「土地改良法」が制定されるまで、耕地整理は米作を中心とした食糧増強基調を支えました。1960年(昭和35)にはじまる農林省や都道府県による圃場整備(ほじょうせいび)事業では、農地が30×100メートルの30アールを基準に区画しなおされたため、古代からの多くの条里遺構が消滅しました。
日野市 東京府測点1
京王線「平山城址公園」(地形図:武蔵府中)から南西200メートル、八王寺方面への車道に面した平山六丁目に東京府測点があります。「平山」の信号のすぐ西、「増田屋」という蕎麦屋の向かいで、NTT電信柱(電力と共架か)「平山支22」の下にありますが、道路拡幅工事中のガードレールの切れ目にあたり、いずれ撤去されるのではと思われます。
一辺15センチメートル、地上高さ60、うち整形部高さ30センチメートルの花崗岩角柱で刻字は南面(ガードレール外側)に「東京府測點」、北面に「No13」と刻字があり、上面は全面にわたり+印があります。
日野市は江戸時代から日野宿と呼ばれ明治維新後、神奈川県多摩郡に所属していましたが、東京府が古くから用水の水源として多摩川を利用してきたことから、「玉川上水」の水利権と奥多摩地域の水源確保のため、1893年(明治26)に東京府に編入され日野町に改称されました。東京府が東京都になったのが1943年(昭和18)ですから、その間にこの標石が設置されたようです。
日野市 東京府測点2
京王線「平山城址公園」(地形図:武蔵府中)から南東200メートル、平山五丁目の信号のすぐ北西で八王寺方面への車道からひと筋北の通り北側の民家前に東京府測点があります。植え込みの中、塀のきわにあり近傍から移設されたようです。標石の裏とブロック塀の間は10センチメートル程度しかありません。
一辺15センチメートル、地上高さ73、うち整形部50センチメートルの花崗岩角柱で刻字は南面に「東京府測點」、北面に「No10」と刻字があり、上面は全面にわたり+印があります。
港区台場 築港測點
お台場海浜公園の第三台場(地形図:東京南部、港区台場一丁目)には入り口階段を上がったところに三等三角点「三番台場」があり、この三角点から南にかけて、ほぼ3メートルの間隔で東京都の水準点と「築港測點」の古い測量標石がならんでいます。
東京都の水準点は「三番台場」の三角点の記に「東京都水準点」と記されていただけで、それ以上の根拠はありません。水準点標石はコンクリートの枡に入っており、一辺19センチメートルの角柱で上辺は隅きりされ、中央に球分体があります。刻字などは見られません。
「築港測點」の方は一辺15センチメートル、粗雑なコンクリートの基礎から上面まで53センチメートル、うち整形部は33センチメートルの角柱で、西面に「築港測點」、東面に「21」と刻字があり、ほかの面にはありません。また上面の中央には直径3.5センチメートルの逆円錐状の穴が開けられています。1900年(明治33)に東京市築港調査事務所により東京港築造のため三角測量や水準測量が実施されています。そのとき設置された基準点と思われます。[東京市役所:東京市史稿 港灣篇 第4 1926 p909-910]
中央区旧浜離宮 築港測點
JR「新橋」南東の旧浜離宮庭園(地形図:東京南部)にも「築港測點」が見られます。水上バス乗り場近くの庭園北東角に粗雑なコンクリートの標石ありますが、これではなく、さらに南へ25メートルのところになります。お台場海浜公園の第三台場の築港測点と同じ仕様です。一辺15センチメートル、地上高さは22センチメートルの角柱で、北面に「築港測點」、南面に「3」と刻字があり、ほかの面にはありません。また上面の中央には直径3.5センチメートルの逆円錐状の穴が開けられています。
横浜市中村八幡神社 水準点
JR「石川町」の西1.5キロメートルの八幡神社(地形図:横浜東部)には几号水準点がありますが、これとは別にすぐ近くの階段の右下前部には地図にない水準点が見られます。標石は14センチメートル角、地上高さ8センチメートルあり上面に現行の水準点と同様の、直径4センチメートルの球分体があります。東面にはB.M、西面には「復」(さらにこの下にも字がありますが地下になり判読不可)と刻字があります。
境内には1895年(明治28)に設置された境界標石があります。「従是東 武蔵国久良岐郡 中村字八幡 御料地 明治廿八年・・・」と刻字が読めました。
愛知県岡崎市 旧岡崎町三角点
愛知県岡崎市の中央に甲山(かぶとやま)公園(地形図:岡崎、岡崎市六供町甲越)という丘がありますが、この山頂に国土地理院の二等三角点「六供村」と隣り合わせで岡崎町三角点が設置されています。上部一辺15センチメートル、下部一辺25センチメートルの角錐で角錐部の高さは50センチメートルあり、礎石と一体になっています。上面には+の刻印があり、南面は「三角点 No12」、北面は「岡崎町」と刻字があります。岡崎市にも問い合わせましたが、設置時期や目的は定かではありません。二等三角点「六供村」は点の記によると、1886年(明治19)9月に埋標されています。六供村は1889年(明治22)10月に岡崎町大字六供になりました。岡崎町は1916年(大正5)に岡崎市に変わりました。したがって、この標石は1889年(明治22)から1916年(大正5)までの間に設置されています。旧参謀本部の二等三角点の方が先に設置され、いままで共存していたことになります。
この場所は岡崎市指定の文化財史跡「甲山第一号古墳 甲山寺」になっていますが、奈良市若草山にある奈良市の「大三角点」も近くに古墳や国土地理院の三等三角点があり偶然ですが、共通した環境です。
滋賀県長浜市己高山 標石
長浜市木之本町の己高山(こだかみやま、地形図:近江河合)には922.6メートルの三等三角点「己高山」がありますが、これとは別に三角点の西8メートルの山頂の広場で、内務省の測点に酷似した標石が見つかりました。一辺26センチメートル、地上高さ10センチメートルの花崗岩角柱で上面対角線の×が刻まれており、対角線の方向はほぼ東西、南北を示しています。側面など見える部分には文字は見られません。地元の人にはこの存在さえも知られていません。これだけでは内務省の測点とは断定できませんが、現行の三角点は1890年(明治23)に選点、埋標されているので、それ以前に設置されたものと思われます。
滋賀県湖北山本山 標石
長浜市高月町の山本山(地形図:竹生島)は古戦場で知られる賎ヶ岳連山の南端にあり、城跡になっています。この本丸跡南東端には二等三角点「山本山」がありますが、その北西に隣接して東西幅15、南北幅13、地上高さ12センチメートルの標石が見られます。刻字はありませんが、上面には薄ら対角線が彫られているように見えます。山麓から境界石杭は多数見られますが、これらとは異なった形状です。城跡整備を目的とした測量で設置された可能性があります。
滋賀県近江八幡沖島 水準点標石
琵琶湖の沖島(おきしま)は300人程度が生活する島で、湖での漁業が盛んです。対岸の近江八幡市堀切港まで1.5キロメートル、渡船で約10分です。沖島漁港(地形図:沖島、おきのしま)のすぐ近く、コミュニティセンター前の桜の木の下に小祠があります。その祠の北側に水準点標石が見られます。
大きさ21センチメートル角、高さは整形部30、荒削り部28センチメートル、上面球分は直径5.5センチメートルの花こう岩で、刻字は北面に二段書き「B.M NO40」、南面に縦書き「滋賀縣」と刻されています。なぜここに水準点があり水準路線はどうなのか不明です。
滋賀県竜王町雪野山 標石
雪野山(地形図:日野西部)は近江八幡の南、竜王町にある小高い丘です。山頂は古墳になっていますが、1884年(明治17)に選点された308.8メートルの一等三角点「竜王山Ⅰ」があります。そのすぐそば、三角点から西へ8メートルのところに、べつの標石をみつけました。
花崗岩でできており、大きさは東西18センチメートル、南北19センチメートルの角、地上高さは4センチメートルで全体はほとんど地中に埋まっています。上面は対角線に×が細かく刻まれており、北西角から南東角への線と北東角から南西角への線が中央で交わっています。側面は、すこし掘って調べましたが、西面には辛うじて「滋賀○」(○は判読不可)ではないかと思われる刻字がありました。そのほかの面はなにも見られません。のちほど竜王町役場からいただいた山頂付近の図面には一等三角点とともに、この標石は「滋賀県第四基」として掲載されていましたが、使用目的はわかりません。
一般に見られる境界標石にしては×の刻印が精密で、正確な位置をしめす測量標石ではないかと思われます。古墳発掘の際の測量基準点かもしれません。
滋賀県竜王町鏡山 標石
鏡山(地形図:野洲)は名神竜王インター近くにある山です。山頂付近には古寺跡や龍王社という祠などがあり、地元に親しまれ、散策道も整備されています。現行の標高384.6メートルの二等三角点「鏡山」から東へ150メートルの尾根筋に別の標石があります。
大きさは一辺18センチメートル、地上高さ26センチメートルの花崗岩角柱です。上面は対角線に×が細かく刻まれており北西角から南東角への線と北東角から南西角への線が中央で交わっています。側面の刻字は南面には「明治十二年」「十二月建設」と縦二段書き、東面には中ほどに「三」が判読でき、ほかの刻字は不明、北面には「高木○平」「林○○」(○は判読不可)そのほかの刻字は判読できません。西面には刻字は見当たりません。
山頂一帯は国有林になっており、この標石から現行の三角点までには明治時代に設置されたと思われる境界標石が3基あり、さらに山頂から龍王社への山道にも2基みつけました。これらの境界標石は旧営林署のものと思われます。
後日、滋賀県立図書館で十二万分一「滋賀縣管内實測圖」1885年(明治18)と「近江國實測圖」1896年(明治29)再版を見つけました。いずれも鏡山、雪野山とも明示されており、地図の注書きには「本圖ハ明治十二年十一月業ヲ起シ爾后中止スル事数十月仝十八年八月業ヲ卒フ(おう)(中略)滋賀縣」とあり、枠外には「測量製図 滋賀縣七等属 高木秀平 仝九等属 河原為五郎 仝十等属 北尾勝吉」とあります。地図の「明治十二年」と「高木秀平」が標石の刻字とほぼ一致しており、この測量の際に設置された標石である可能性は大きいようです。[滋賀縣:滋賀県管内實測圖 淡海堂 1885]、[滋賀縣:近江國實測圖 淡海堂 1896]
京都市左京区神楽岡 京都市測点
京都市左京区にある真如堂(地形図:京都東北部)の西、東北院境内の西側石垣の上で見つかりました。神楽岡通りにある後一条天皇陵の向かいにあたります。
一辺12センチメートル、地上高さ25センチメートルの花崗岩製角柱で幅50、厚さ30センチメートル程度の不定形なコンクリート基礎が石垣の上に浮き上がっており、その基礎に標石が固定されています。近傍の道路から基礎ごと移設されたものと思われます。上面には一画4~5センチメートルの+印があり東面には「測点」、西面には「京都市」と縦書きの刻字があります。
京都市の市制は1888年(明治21)に制定、翌年に施行され、この時点で、この辺りの愛宕郡(おたぎぐん)浄土寺村は市に編入されています。従って標石はそれ以降に設置されています。
京都市北区平野神社 京都市測点
桜の名所として知られる平野神社(地形図:京都西北部)の外壁、北西角で見つかりました。北大路通りに面する歩道を神社西門から北上し塀が途切れる角の下に標石があります。一辺12センチメートル、地上高さ5センチメートルの花こう岩で上面に+印と「京都市 測点」(右書き)の刻字があります。いつごろ、どのような目的で設置されたか不明です。地籍調査のために設置されたかもしれません。この標石に隣接して神社の境界杭と思われる無印の標石もありました。
京都市右京区小倉山 三角点
嵐山渡月橋の西から嵐山公園(旧亀山離宮公園)の最奥にある展望台をへて小倉山(地形図:京都西北部)の稜線に沿って北西に登ります。標高約160メートルの位置に平坦な場所があり道の中央、マツの木の下に三角点と思われる標石が見られます。公園最奥から10分程度要します。この位置から東に京都市街が望め、南は急斜面で桂川(保津川)に落ち込んでいます。北と西方向は潅木で展望は得られません。小倉山一帯は京都市の「小倉山歴史的風土特別保存地区」になっています。
標石は一辺12センチメートル、地上高さ10センチメートルの角柱で上面には+印、北面は「市」の刻字、南面は「△」の刻印があります。東西面は刻字はありません。標石の周囲の土を少し除きましたが、標石はコンクリートの基礎に固着していました。標石下部の確認はできませんが、刻字はないようです。刻字、刻印から察すると京都市が設置した三角点と思われます。
この位置からさらに尾根筋を登ると、標高296メートルの小倉山に到達できます。小倉山には三角点はありませんが、山頂とこの標石の中ほどに「都市計畫京都地方委員會」の三角点があったようです。京都市土木局都市計画課、大正11年測図、昭和10年修正、昭和11年製版の三千分一之尺、「小倉山」によると標高234.30メートルの三角点があり「都市計畫京都地方委員會三角點」の記号があります。この実物は見つかっていません。
都市計画法は1919年(大正8)に制定され、これにもとづき土地区画整理が実施されますが、民間による区画整理と都市計画事業として強制力で実施される区画整理があります。京都市の場合は後者で各所の区画整理地が全体として統制のとれた計画で実施されています。「都市計畫京都地方委員會」は1919年(大正8)制定の都市計画法にもとづき府県に組織された委員会で旧内務省の出先機関として都市計画を指導しました。
奈良市若草山 大三角点
奈良市雑司町の若草山(地形図:奈良)は三笠山ともいわれるように、三重になったピークがつらなっていますが、山頂は三重目で鶯塚古墳には現行の341.8メートルの三等三角点「三笠山」があります。ここから南西方向への尾根道を約250メートル下ったところに二重目の山の標識がありますが、さらに南へ50メートルの地点で真西に東大寺の大仏殿が望める位置に、大三角点と刻字のある標石があります。見通しのよい道の真ん中にあり、だれでも目のつくところです。
一辺15センチメートル、地上高さ35センチメートルの花崗岩角柱で、上面には北西、南東間と北東、南西間に対角線が引かれています。南面は「大三角点」、東面は「奈良市」、北面は「七号」の刻字があります。西面には刻字はありません。
現行の三角点「三笠山」は1903年(明治36)に埋標されていますが、奈良市の市制は1898年(明治31)に施行されているので奈良市発足後にこの大三角点が設置されたようです。若草山や麓の奈良公園一帯は明治のころから奈良市によって環境保護や文化財保護がされていたので、そのための測量につかった可能性もあります。
「大三角」の名称ですが内務省では1876年(明治9)ころから「大三角測量」とよばれた全国的な測量をしました。1887年(明治20)製版の測量局の二万分の一迅速測図記号には三角標として「大三角」と名称のついた記号が載っています。
しかし「大三角点」という名称は日本が明治後期から大正にかけて朝鮮、満州の測量で設置した三角点につけたことが始りではないかと思われます。これは日本国内の二、三等三角点相当です。1913年(大正2)の朝鮮総督府臨時土地調査局測量規程、1914年(大正3)の関東州測量標規則にも「大三角點」、「小三角點」があります。わたしが見た1916年(大正5)測図、1933年(昭和8)発行の五万分の一假製図「白頭山」、「小白山」(朝鮮総督府臨時土地調査局、大日本帝国陸地測量部発行)では大三角點、小三角點の表記があり、それぞれ△に中点、○に中点の記号になっています。
若草山は麓と山頂からの尾根筋にはゲートがあり芝生などの整備のため毎年、春秋の限られた期間しか入山できませんが、今回は許可を得て探訪してきました。標石の寸法を測っていると鹿が不思議そうな顔でこちらを見ていました。
奈良市柏木町 大三角点
若草山の大三角点と同様のものが現存すると思っていたところ、「三号」ありとの報せがありました。奈良市柏木町(地形図:奈良)で国道24号線沿いにある「木曽路」という料理屋の北です。現在は奈良市の市有地で空地になって整地してありますが、ただこの標石のところだけは未整地で高さ2メートル程度の小高い荒地になっています。この位置には国土地理院の三等三角点「柏木」があったのですが、現在は移設されています。若草山七号から直線距離で5キロメートルあります。
標石の寸法や字体も若草山の「七号」と同じで「三号」と刻字され、若草山と共通しているのは標石が無傷で美しく字体も古めかしくなく、昭和になってから設置された標石かもしれません。奈良市当局と国土地理院でも調べましたが、この標石の素性は不明です。現在は地方自治体などの基準点を国土地理院の基準点に隣接して設置することは認められません。
北九州市門司区古城山 三角点
北九州市門司区の門司城跡になっている古城山(地形図:下関)の山頂にあります。国土地理院の三等三角点「城山」のすぐ南2メートルの地点です。一辺11センチメートルで地上高さ30センチメートルの角柱です。南面には縦書きで「三角點」と刻字されていますが、そのほかの面はなにもありません。山頂は戦時中の砲台と思われる構築物があるので、あるいは軍事関係であったのかもしれません。因みに現行の三等三角点は戦後の1947年(昭和22)選点になっています。