御料局の測量

御料地

かつて幕府直轄の広大な領地は御料地と呼ばれましたが、皇室の領地である禁裏御料所は京都山科などの近郊にかぎられ、織田信長は1575年(天正3)に山城十一郷に千石を与えました。この禁裏御料所は明治維新まで受け継がれてきましたが、財源となる農地や林野は皆無に近い状態でした。[五十嵐富夫:日光例幣使街道 柏書房 1977 p12]

禁裏御料所の例として、京都市右京区京北の一部、旧北桑田郡山国村(やまぐにむら)があります。山国村は平安京造営のための木材の供給地として、10世紀後半には修理職(しゅりしき)領になりました。その後、禁裏領となりますが、室町時代以降は朝廷による支配と幕府による支配が入り乱れます。18世紀はじめ、将軍徳川綱吉の頃、一部が禁裏領に復して、明治維新まで禁裏領と旗本の知行地などが混在することになりました。[岡本剛次:山国の古代史を解く 私本(京都府立図書館蔵)1992 p71]

1885年(明治18)、宮内省に皇室の所有地を管理する御料局がおかれ、皇室の領地は御料地と称さ1889年(明治22)からは官林の一部が御料林として編入されることとなりました。御料地には皇宮など皇室が直接必要とする第一類御料地と、皇室の財源となる収益事業用の第二類御料地があり御料林は後者に属します。また当時の御料地のうち約半分の101万町歩を「世傳御料地」(せでんごりょうち、皇室典範上の制度)と定め皇室の世襲財産になりました。そのほかを「普通御料地」としています。世傳御料地のうち御料林として経営されていたのは丹沢(神奈川県)、瀬尻(静岡県)、千頭(静岡県)、段戸(愛知県)、木曽(長野・岐阜県)、七宗(岐阜県)の6ヶ所です。

江戸時代の藩有林から明治維新後の官林や、さらに御料林への編入はすべて円滑におこなわれたわけではありません。藩有林の制度下よりも厳しい管理体制ができたため、山林の「入会」(いりあい)により生計をたてていた地元民の日常生活を脅かす事態も起こってきました。「入会」は地元民が木材以外の下草、雑木など林産物を取得することです。[萩野敏雄:御料林経営の研究 日本林業調査会 2006 p25-52]

木曽では嘆願運動が島崎正樹(しまざき・まさき 1831~1886、国学者)が先頭に立ち行われます。島崎正樹の活躍は四男、島崎藤村(しまざき・とうそん 1872~1943)の「木曽路はすべて山の中である」ではじまる小説「夜明け前」に主人公「青山半蔵」として描かれています。死後も嘆願は島崎一族によって、つづけられましたが、ことごとく却下され、最終的には御下賜金で解決をみました。島崎家の墓所は中津川市馬籠の永昌寺にあります。本堂下(南)の墓地には島崎藤村と一家の墓が、その二段下の墓地に正樹の墓があります。[島崎藤村:夜明け前 第二部(下) 岩波文庫 2003 p12-21、p317-320ほか]

山梨県では県下の御料地の大部分をしめる入会御料地が1907年(明治40)と1910年(明治43)の大水害を契機に1911年(明治44)、恩賜林として同県に下賜されました。これらの解決は特異なケースで、その後も御料林全廃論まででてきました。[山梨県恩賜林保護組合連合会:恩賜林の生い立ちを探る 2011、頁なし(恩賜林100周年記念行事配布資料)]

御料林の大部分は1889(明治22)と翌年に官林を移管されたものでしたが、境界や面積が不正確であったため、御料地の事業計画に先立ち、境界を査定し測量により面積の確定を行いました。初期の測量は困難を極め、測量作業に従事中、絶壁から墜落死亡するなど殉職者も少なくありませんでした。[農林大臣官房総務課:農林行政史 第五巻下 農林協会 1963 p1179][帝室林野局:帝室林野局五十年史 1939 p231][松波秀實:明治林業史要 大日本山林會 1919 p119]

御料局の測量はまず御料地近傍にある陸地測量部の一、二等三角点を基準として、三等以下の小三角網を設定し三角測量により境界測量の基点を定めました。御料地内や境界線上に陸地測量部の三角点が既存している場合はそのまま基点として利用することもありました。ついでこの基点から多角測量による「細形測量」を行いました。陸地測量部の三角点と御料局の三角点が前後して設置されたり共存している事例もあります。北海道の日高、新冠御料林の三角測量は陸地測量部に先がけて行われました。[高澤光雄:北海道の登山史探究 北海道出版企画センター 2011 p51]


御料局の三角点標石は1894年(明治27)に定められた、御料地測量規程(御料局長達第一二一七號)で寸法、形状が決まっています。当時の御料局長は岩村通俊(いわむら・みちとし 1840~1915、土佐出身)です。三角点標石(図イ)は一辺が12~15、高さ約75センチメートルの角柱で上面は隅切り、×の刻印があり、5分の4を地下に埋めます。主要な三角点には地中標(図ロ、一辺36、厚さ15センチメートル、陸地測量部の盤石に相当)を設けました。石標にかえ木標(図ハ)、固着岩石(図ニ、自然石上面に15センチメートル角の平面)が使用されました。固着岩石は界標としても使用されています。「本點」(二、三等)のほかに「副點」(四等)があり標石に「御料局三角點」の刻字があります。三角点が不足する場合には「補点」を設けました。御料局三角点の等級は原則、三等以下になりますが、稀に二等も見られます。細形測量の標石は「御料局測點」の刻字があります。御料局三角点には規程で定まっていないケースも多く、形状も刻字もさまざまで、表に「御料局」裏に「三角點」とあるものや異字体のもの、上面の×印が+印などあります。[御料局:御料地測量規程 第一二一七號 1894 p2-5、第壹圖式 大阪市立中央図書館蔵]

御料局三角点の次世代標石として、「宮三角點」という刻字のある標石があります。「宮」のウ冠は広く丸みを帯びてデフォルメされており、宮内省を意味します。御料局が1908年(明治41)に帝室林野管理局と改称され、この機会に「御料局三角點」から「宮三角點」に変更されました。境界標石にも「宮」が刻印されたものがありますが、これは「宮三角點」よりも以前からつかわれています。[御料局:御料地三角點石標ヘ彫刻スル文字ノ件 第一二一九號 長官ヘ伺定 1909(帝室林野局制規集 1933 p339)]

御料局は1908年(明治41) に帝室林野管理局、さらに1924年(大正13)に帝室林野局に改称されました。第二大戦後は皇室財産は国有財産になり、1947年(昭和22)には御料林は農林省山林局所管の国有林と統合され、ついで同林野局に移管されました。帝室林野局の出張所は農林省傘下の営林署と同じ呼称になり、また出張所の出先である分担区は営林署の担当区と同じ呼称に改められました。さらに御料林の区画班と、これを細分する林相班は、それぞれ国有林と同じ林班、小班という名称に統一されました。現在、すべての国有林は林野庁森林管理局の所管になっています。

御料局の三角点は現在も北海道から、三重県まで残置されているのが見られます。上條武著「孤高の道しるべ」には神足勝記(こうたり・かつき 1854~1937、熊本出身)の業績とともに御料地、御料林の成立について記述されています。神足は農商務省地質調査所から和田維四郎(わだ・つなしろう 1856~1920)と品川弥二郎(しながわ・やじろう 1843~1900、長州藩)の推薦によって、1891年(明治24)には初代御料局測量課長に就任しています。[上條武:孤高の道しるべ 銀河書房 1983]

御料局 大崎市石幌山

大崎市のJR「小牛田」(こごた)から南西10キロメートルの石幌山(地形図:鹿島台)に御料局三角点があります。この位置には現行の四等三角点「貝抜沢」と「明治26年」の刻字がある宮城県の標石が併設されています。

一辺12.7センチメートル、地上高さ16センチメートルの角柱で、上面は一画6センチメートルの×印があり角切があります。刻字は南面が「御料局三角點」、北面が「二等」です。

宮城県の御料地は大正末期にはすべて民間に払い下げられました。明治後期にあった近傍の御料地を、陸地測量部所管の一、二等三角点と連系して測量するため設置されたと考えられます。[帝室林野局:帝室林野局五十年史 1939 p325-326]

御料局 栃木県塩原

塩原のビジターセンター(地形図:塩原)から南の山に遊歩道があり、その途中から尾根筋を登ると、国土地理院の三等三角点「塩ノ湯」(那須塩原市塩原)があり、そのすぐ手前に御料局三角点が見られます。この地点まで徒歩約40分を要します。

標石は一辺12.5センチメートル、地上高さ45、うち整形部20センチメートルの角柱で上面に×が刻印されており、刻字は北面だけで「御料局三角點」とあります。標石の岩質は軽石のように多孔質のものです。

塩原の旧御料林は1891年(明治24)に旧宮内省の所管になり「塩原第二御料地」として発足したものです。現在は林野庁塩那森林管理署の所管になっています。

御料局 栃木県塩原 (測点)

塩原の御料局三角点(地形図:塩原)を過ぎて、さらに南のピークを登ったところに御料局測点あります。一辺12.5センチメートル、地上高さ26、うち整形部20センチメートルの角柱で上面に×が刻印されています。刻字は南面だけで「御料局測点」とあります。御料局の「料」の字体は三角点標石では米へんに升と書かれていることが多いのですが、この標石は普通の「料」で、また「点」も「點」にはなっていません。この岩質も多孔質です。

「御料局測点」の「測点」は御料地測量規程、第二十七條(明治27年)に定めてあるとおり、三角測量によらず多角測量で用いられたものと思われます。

御料局 栃木県唐沢山 神社寄り

唐沢山は栃木県南部の佐野市と田沼町の境界(地形図:田沼)にあり山頂は城跡になっていますが、藤原秀郷(ひでさと 生没年不明)を祀った唐沢山神社があります。このあたりは1887年(明治20)に唐沢山御料地として編入され唐沢山神社に管理委託されていました。[農林大臣官房総務課:農林行政史 第五巻下 農林協会 1963]

神社の駐車場から車道を越え、尾根筋入り口を南へ約300メートルの地点に御料局三角點の標石があります。標石は一辺12センチメートル、地上高14センチメートルの角柱で上面の角は隅切りがあり丸みを帯びており×印は南北、東西に向いています。側面の北東面には「御料局」「三角點」と、たて2行に刻字があります。他の面にはなにもありません。他所でみられる御料局三角點には等級などの刻字がありますがこれは無等級です。

御料局 栃木県唐沢山 221標高点

唐沢山神社(地形図:田沼)寄りの御料局三角點から南下すると、尾根筋入り口から約500メートル地点とさらに尾根筋入り口から約550メートル地点に「宮」の字をまるくデフォルメした刻印のある宮内省の境界標石があります。「宮」のマークの裏側面には「界町田」(判読できない字もあり)と刻字があります。いずれも一辺12センチメートル、地上高17センチメートルの角柱です。さらに地形図では221メートルの標高点あたりに、もうひとつ御料局三角點が見られます。標石は一辺15センチメートル、地上高18センチメートルの角柱で刻字は神社寄りの標石と同じく無等級です。

御料局 東京高尾山

八王寺市の高尾山(地形図:与瀬)は都内から交通の便もよく、ハイキング道も整備され、東海自然歩道の起点にもなっています。ケーブルの山頂駅から高尾山の山頂の方へ向かうと約15分で薬王院に到着します。急な石段を登り本堂、本社、飯縄権現堂をへて奥之院不動堂に10分で達せられます。そこからさらに西へ向かい尾根筋の木立のなかをハイキング道がつづいていますが、不動堂すぐ上の木道の北側、モミの大木の下に御料局三角点が見られます。この位置から不動堂の屋根が見えます。現地で探索した当日は霧雨で木立は煙っていました。

一辺12センチメートル、地上高さ42、うち整形部分25センチメートルの角柱ですが、刻字、刻印に特徴があります。まず上面は×ではなく一画5~6センチメートルの+が中央に彫られています。南面は「御料局 三角點」の刻字ですが「角」の字は「々」のい下が「用」のように下に突き抜けた字体になっています。北面は本来、等級が刻字されますが、この標石は「宮」をデフォルメしたマークが刻印されています。

この三角点は現在も使用され森林管理局の「第3次国有林野施業実施計画図」によれば点名は「坊ヶ谷戸」になっています。等級のないことから境界確定の測量の際、近傍の参謀本部の三角点の補助として設置されたものと思われます。この標石の情報は東京のTさんにご教示いただきました。高尾山から北の相模湖町方面は旧御料林で三角点や界標が多く残存しているようです。

御料局 津久井湖城山

神奈川県津久井湖の南にある標高375メートルの城山(地形図:上溝)の稜線上にあります。麓の根本地区にあるパークセンターから城山山頂南東の飯縄神社をへて鷹射場まで約40分、ここから北東稜線を5分たらず下ったところに数ヶ所の御料局界標とともに三角点が見られます。

標石は一辺12センチメートル、地上高さ20センチメートルの角柱で上面には一画9センチメートルの×印が中央に刻印されています。標石東面は「御料局」、西面は「三角点」(「角」は「々」の下に「用」)の刻字があります。そのほかの面には等級などは見当たりません。現在も使用されているようで赤いスプレー塗装がされており、刻字が見難くなっていました。点名は「城山」になっています。

御料局 湯河原

湯河原の西にある丘陵地帯は国有林ですが、かつては御料林でした。湯河原温泉(地形図:熱海)のアラスケ沢林道をゲートから徒歩50分、いったん沢に下りて北の尾根に登ります。林道からの下降点から20分で到達できます。四等三角点「竹ノ沢」(神奈川県湯河原町宮上)の北西250メートル、植林された尾根の中間に位置します。

東西の幅1.5メートル程度の不定形な岩石で、上面は斜め折れ曲がった三角形になっており頂点に一画10センチメートルの+印とその下10センチメートルのところから北面にかけ、長さ26、幅7センチメートルの範囲に「三角点」(「角」は「々」に「用」)の刻字があります。東京神奈川森林管理署の図面によればこの三角点は図根点として載っており、点名は「高森」になっていました。設置時期は不明ですが、近傍に宮マークの界標があることから御料局の三角点であったようです。

右上の写真は案内いただいたTさんが他日、標石の南(左が西)から撮影されたものです。右下はわたしが北(左が東)から撮影しました。

御料局 天城山

伊豆の天城山は万三郎岳や万二郎岳などの連山ですが、万三郎岳(地形図:天城山)には現行の国土地理院所管、一等三角点があります。伊東市の南西にある天城高原ゴルフ場の入口手前が東の登山口になっており、万三郎岳の方へ向かって1時間程度登ると、最初のピークである万二郎岳の山頂に達せられます。山頂は雑木に囲まれ、展望はあまりよくありませんが、万三郎岳を望むことができます。

この山頂に御料局の測量標石があります。一辺12センチメートル、地上高さ65、うち整形部分23センチメートルの角柱が全部露出しています。上面は対角線が彫られ側面は「御料局」、「測點」と縦2行で、その裏面は「第八號」と刻字があります。横倒しになっていたのを立てかけて写真を撮ったので元位置ではありません。

「御料局測點」と刻字のあることから、御料地測量規程、第二十七條(明治27年)に定めてあるとおり三角測量によらず多角測量で用いられたものと思われます。

御料局 荒川前岳

荒川三山のうち前岳山頂(地形図:赤石岳)で見つけました。前岳山頂は荒川岳から赤石岳への縦走路から僅か離れたところで、標高3068メートルです。この山頂の標示杭の西側に標石がありますが、すぐ下が大崩落を起こしており危険な場所です。刻字は南面に「四等」、北面はかなり磨耗していましたが、「御料局 三角點」と辛うじて読めます。寸法は危険な位置にあるため測れなかったのですが、四隅が面取りされていることや上面の×刻印などは御料局の標準タイプです。

加藤文太郎の著作「單獨行」には、この三角点が登場します。いまから80年以上前の記録になります。「國境線へ出で縦走して御料局三角點のある前岳へ登る。もう霧は晴れて富士山をも見る事が出來、眺望雄大...」[加藤文太郎:單獨行 朋文堂 1941 p217 南アルプスをゆく1927年7月の記録]

御料局 塩見岳

塩見岳山頂(地形図:塩見岳)に御料局三角点があり、この位置から南アルプス全域を望むことができます。国土地理院所管の二等三角点「塩見山」(伊那市長谷浦)の西10メートルの地点で見かけました。一辺12センチメートルで上面に×印と隅きりがあり南面は「御料局 三角點」、北面は「四等」の刻字がある典型的な御料局三角点です。

国土地理院の三角点は1902年(明治35)に埋標されましたが、御料局三角点は、この前年に設置されています。初期の点の記には「御料局所轄地土地ニテ通称塩見山ト云ヘリ(御料局四等点旁ニ在リ仝点名ヲ用ユ)」とあります。[山崎安治:新稿 日本登山史 白水社 1986 p237、243]

御料局 奥大井接岨峡 (せっそきょう)

静岡県川根本町にある長島ダム上流は接岨湖と呼ばれ、大井川鉄道井川線には湖中央の半島状のところに「奥大井湖上」(地形図:千頭)という駅があります。その南から天狗石山に向かって登山道の急坂を登り、送電線路と林道を横断、さらに山の斜面を登りきってヒノキ林になったところの平坦な尾根道中央に御料局三角点が見られます。赤ペイントでスプレー塗装された標石に隣接して「境界見出標 866 東京営林局」の標示札があります。駅から徒歩40分を要しました。

三角点標石は一辺12センチメートル、地上高さ18センチメートルの角柱で上面に一画9センチメートルの×印と隅きりがあり東面は「御料局」、西面は「三角點」(「角」は「々」に「用」、「點」は下四ッ点)の刻字があり、他面は刻字はありません。御料局の点名は「油ノ河内」のようです。この三角点は現在は界標になっており、南北それぞれ約30メートルの位置にも宮マークが刻印された御料局界標が見られます。

帰途は名残りの紅葉を眺めながら鉄道の「レインボーブリッジ」を渡り接岨峡温泉に浸かり、アプト式列車や蒸気機関車に乗って千頭経由、JR東海道線「金谷」まで戻りました。

御料局 八子ヶ峰南

蓼科高原から白樺湖へ向かう途中にスズラン峠があります。この峠の手前の登山口から蓼科山と八子ヶ峰(やしがみね、地形図:蓼科)に登れますが、西の八子ヶ峰方面へ入り、15分ほど登ると主稜線に出ます。快適なハイキング道を蓼科湖に向かい南へ700mの地点で東急リゾートへの分かれ道があり、開けた広場になっています。ここから南東方向に御料局三角点の標石が見えます。三等三角点「凧落」(たこうち、茅野市北山、標高1810.9メートル)に隣接しています。

御料局三角点は一辺12センチメートル、地上高さは全高60、うち整形部16センチメートルの角柱で、すこし傾いて立っています。上面は隅切りがされ四隅が丸くなっており、中央に一画5.5センチメートルの×印が刻印されています。東面は「御料局 三角點」、西面は「三等」の刻字があります。

御料局 阿弥陀岳

阿弥陀岳(地形図:八ヶ岳西部)は八ヶ岳最高峰である赤岳の西1キロメートルのところに御料局三角点があります。麓の行者小屋から尾根筋まで1時間、さらに急峻な岩山をよじ登ること30分で到達できます。頂上からは東に赤岳、南に権現岳、編笠山、遠くには日本アルプスのほとんどの山々が望めます。阿弥陀岳といわれるだけに宗教的な石碑や記念碑などが林立していますが、国土地理院の三角点はありません。御料局の三角点は現在でもつかわれているようで赤く塗装されているのですぐにわかります。

一辺が約15センチメートル、地上高さ50センチメートルの角柱です。上面は隅切りがされ四隅が丸くなっており一辺4.5センチメートルの×が刻印されています。東面には「御料局 三角點」と縦書き2行に、西面は「四等」と縦書きで刻字されています。

赤岳の方は一等三角点の記によれば1894年(明治27)の選点で所有主の明細の欄には御料局所有地と記載があり、この一帯は御料地であったことが裏付けられます。赤岳頂上小屋の前にも御料局の境界標石と思われる標石がありましたが、早朝で薄暗いのと先を急いでいたため写真は撮っていません。

御料局 硫黄岳

八ヶ岳連山のひとつ硫黄岳(地形図:八ヶ岳西部)に御料局三角点があります。硫黄岳には国土地理院の現行の三等三角点「箕冠」(みかむり、標高2741.7メートル、長野県南牧村大字海尻)がありますが、山頂から北東へ500メートル下ったところです。一方、御料局の三角点は、これも山頂ではなく山頂標識からすこし北へ下がった避難小屋近くで赤岳鉱泉への降り口にあります。

標石は塗装がされてなく、近年つかわれた様子はありません。形状、寸法は阿弥陀岳のものと同じです。地上高さが72センチメートルあり標柱はほぼ全部露出しています。標石の北面には「御料局 三角點」と縦書き2行に南面は「三等」と縦書きで刻字されています。この位置からは阿弥陀岳、赤岳、横岳、硫黄岳に囲まれたすり鉢状の地形が望めます。

御料局 茶臼山

北八ヶ岳の縞枯山と麦草峠間の茶臼山(地形図:蓼科)にあります。縦走路には茶臼山の山頂を示す標識があり、そばには御料局の境界標石もありますがこの三角点は山頂から東へ樹林の中を5分、100メートルほど入った標高点2384メートルの岩場にあります。

一辺約12センチメートル、地上高さ25、うち整形部14センチメートルの角柱で、上面は隅切りがされ、四隅が丸くなっています。南面には「御料局 三角點」と縦書き2行に、北面は「四等」と縦書きで刻字されています。

茶臼山や硫黄岳の御料局三角点は1903年(明治36)に陸地測量部の一等三角点「赤岳」を「縦横距原点」にして八ヶ岳一帯の測量に使用されました。

御料局 双子山

双子山は八ヶ岳連山の最北端にあたります。近くの大河原峠(地形図:蓼科山)まで車がはいれるので、20分程度で簡単に登ることができます。山頂には国土地理院の現行の三等三角点「麦原」(茅野市北山、標高2223.8メートル)がありますが、ここから広い草原を南東へ150メートルにある道標のところに御料局の三角点があります。標石の東面には「御料局 三角點」と縦書き2行に西面は「四等」と縦書きで刻字されており赤く塗装されていますが、長年の風雪で、はく離し柱石も傾いています。

山口耀久(やまぐち・あきひさ)の名著「北八ッ彷徨 雪と風の日記」にもこの三角点が現れます。「大河原峠出発、九時二五分。双子山の斜面は荒れ狂う風に翻弄されて息もつけない登りだった。風によりかかったまま御料局の四等三角点を踏んだ。」[山口耀久:北八ッ彷徨 創文社 1961 p21]

この文は「アルプ」第1号(1958)に初出されたもので、1957年(昭和32)12月30日の記録と推察されます。荒れ狂う風のところは平凡社2001年版では吹きすさぶ風と推敲されています。[山口耀久:定本 北八ッ彷徨 平凡社 2001 p21]

御料局 佐渡論天山北ピーク

佐渡のドンデン高原(地形図:両津北部)はタダラ峰ともいい、なだらかな丘陵がつづき牧場にもなっています。論天山は四等三角点「ドンデン」のあるピークですが、もうひとつ北のピークに御料局三角点が見られます。あいにくガスが多く見通しは得られませんでしたが、標石の周囲は草原です。

標石は一辺12センチメートル、地上高さ35センチメートルの角柱で、上面は対角線に×印と隅切がされています。刻字は北面に「三角点」(「点」の四つ点は「大」)、東面「御料局」、南面「明治丗一年六月」とありそれぞれ文字は篆書体(古代文字)になっています。西面の刻字はありません。このような御料局標石の刻字例は佐渡以外では見当たりません。

この標石の近傍には「起点」(「点」の四つ点は「大」)と刻字のある12センチメートル角(正確には計測していません)の標石が両津市(現在は佐渡市)のプラスチック杭とともにありました。字体から察するとこの標石も御料局の所管であったようです。探訪時はガスのため正確な位置が把握できず御料局三角点標石の東側と思われます。

御料局 佐渡論天山西縦走路脇

この標石は探訪当時、みぞれ混じりの小雨の中、ガスがかかり正確な位置は把握していませんが、論天山の西の縦走路の西にある位置(地形図:両津北部)です。偶然に眼につきました。両津市(現在は佐渡市)のプラスチック杭が隣接しています。三角点標石の上面は対角線に×印、刻字は佐渡論天山北ピークにある三角点と同じです。北面に「三角点」(「点」の四つ点は「大」)、東面「御料局」、南面「明治丗一年六月」とあります。このあと小雪混じりの小雨になりドンデン山荘までたどり着くまで不安でした。

御料局 新城市棚山

愛知県東端近くの鳳来寺山から宇連山(うれやま)への稜線中間に棚山高原(地形図:海老)があります。高原の北東端で主稜線上にある巨岩がこの御料局三角点の位置になります。棚山高原の西にあたる川売(かおれ)集落から林道が稜線近くまであり、林道の一般車通行止めのゲートから1時間たらずで到達することができます。1月の終わりに名古屋のYさん、ほか地元山岳会の皆さんに案内していただきました。同行いただいた皆さまには厚くお礼申し上げます。かねて話には聞いていましたが実物を見て驚嘆しました。

尾根筋からの高さ6メートルほどの巨岩の前には森林管理局の標杭があり「境界見出標 この岩の頂上 界八四支一五」とあります。攀じ登った巨岩の上部には、なんと御料局の三角点が刻字されているのです。東西方向に幅13~16センチメートル、全長93センチメートル程度、わずかに削られた平面に一辺5.5センチメートルの「+」刻印を中心にして西側(尾根筋側)には22センチメートルの長さで「補點」が刻字され、東側(谷側)には27センチメートルの長さで+印を頭にして「御料局 三角點」がたて2行に刻字されています。丁度、柱石を上面の+(×ではない)を中心に東西方向の平面に展開した珍奇なスタイルになっていますが、測量官の奇想天外なアイデアによるものか、石工(いしく)の遊び心によるものかはわかりません。いずれにしても、ただものの仕業ではないと思われます。

この巨岩の東側(谷側)に回り込むことができますが、わずかなステップがあるのみで急峻な絶壁になっています。「御料局 三角點」の文字は谷側から、かなり危険を冒して彫刻したようです。この岩から東方面は開けており奥三河の山々の絶景を望むことができます。巨岩の下部には現行の境界見出標があるので、この三角点は現在も境界標石として使われています。近くの稜線には見通しのきく間隔で新旧の境界標石やコンクリート杭が多数見られました。その後の調査でつぎのことが判りました。

この三角点は北設楽郡棚山御料地の三角測量のため1901年(明治34)年6月1日から8月6日の間に使用されたもので、その成果は引き続き行われた御料地の境界確定に利用されました。巨岩に刻印された時期について記録はありませんが1901年(明治34)と思われます。

当時、御料林の境界測量が急がれていた時期であり、各地で御料局独自の三角点も設置されたようですが、棚山の場合、陸地測量部が設置した宇連山などの近傍の三角点を利用し、さらにこれを補うために御料局が補点を設置し三角測量により正確にその位置を求めました。

棚山の御料局三角点補点は点名を「大嶋」といいます。「大嶋」から陸地測量部の「宇礼山」(当時は宇連山でなくそのように書きました)、「名号村」、「豊岡村」の三地点を視準し測角が行われました。補点の設置は御料局の近藤義従技手、測量者は上田辰三郎技手となっています。測量機器はドイツ製三等経緯儀(カールバンベルヒ社)が使われました。

「大嶋」の位置が決定されると、あとは境界測量に移るわけですが、一般的に境界測量では三角測量はしないで多角測量がされます。つぎの点までの角度と距離を折れ線に沿って測る方法で伊能忠敬も用いました。これで棚山御料地の外周は確定したわけです。

以上は御料局の「三河國北設楽郡御料地三角測量簿」などにもとづく情報ですが、わたしが理解し損なっているかもしれません。そのなかの「三角測角手簿」の「大嶋」には「本局三角点補点固着大岩石上ニ十字形ヲ彫ス」とはっきり記載があります。この三角点は本来の位置を測量するという三角点としての役目は終わりましたが、現在でも境界標として使用されています。現在の森林管理局の台帳には点名「大島」、種類は「天然岩石標」になっており国有林野施業実施計画図(二万分の一)にも掲載されていることがわかりました。

御料局当時の測量成果などの資料については国土地理院のような閲覧、謄本請求をすることが難しいようです。また「点の記」も補点については、もともと作成されないので「大嶋」の分はありません。今回の調査では中部森林管理局には、たいへん懇切に対応いただきました。

御料局 瀬戸市定光寺

JR中央線「定光寺」の東2.5キロメートルあたりの東海自然歩道の際に御料局三角点があります。定光寺ゴルフ場の南にある集落から南東へ林道を入り、神明神社入口を過ぎ宮刈沢に沿って宮刈池をへて20分程度で宮刈峠(地形図:高蔵寺)に到達します。この峠から北へ登り2基目の送電鉄塔(中部電力瀬戸笠原線41号)の下、歩道ぎわに休憩ベンチが見られます。三角点はこの位置にある防火用水溜から南東20メートル、マツの下にありますが、枯れ木や落ち葉に覆われており見つけるのは困難でした。あたりは雑木林ですが、ほぼ平面でピークがありません。

標石は一辺12.5センチメートル、地上高5センチメートルの花崗岩で上面の角は隅切りがあり丸みを帯びており×印は南北、東西に向いて一画4.5センチメートルあります。側面をすこし掘って調べると南西面には「御料局 三角點」、北東面は「三角補點」の刻字があり、上面の×印は一画4.5センチメートルあります。

三角点はマツや雑木で囲まれ見通しは得られません。この三角点は森林管理局の台帳では瀬戸国有林にあり、点名は「西山田」で国有林の境界標石として現在も使われているようです。「三角補點」の刻字例は稀です。

名刹、定光寺はJR「定光寺」から徒歩15分程度で臨済宗妙心寺派の寺院ですが、尾張徳川家の菩提寺になっており江戸時代初期に帰化中国人によって建てられた御廟があります。

御料局 名古屋市植田山

名古屋、東山動植物公園すぐ南の植田山(地形図:名古屋南部)に御料局三角点があります。同園の上池門から南へ高速道路をくぐり「植田山駐車場」の東端から尾根を登ると、すぐに図根点が見つかります。国土地理院の所管ですが、地理調査所時代に設置されたものです。この位置から北西へ5分たらずの、なだらかなピークに御料局三角点があります。標石の大きさは一辺12.5、地上高さ15センチメートルの角柱で上面は隅切りがされ、四隅が丸くなっており対角線全面に×が刻印されています。南面は「御料局 三角點」とありますが「角」の字の中棒が突抜けて「々」の下に「用」といった字体になっています。

標石の周囲は潅木で展望は得られません。またこの御料局三角点標石の西2メートルに一辺9、地上高さ6センチメートルの標石があり上面には斜めに「TP」の刻字がありました。

御料局 名古屋市神の倉

地下鉄鶴舞線「平針」の南2.5キロメートルに位置する小丘陵(地形図:平針)に御料局三角点があります。運転免許試験場のすぐ南にあたります。この丘の南に平針熊野神社があり本殿北から尾根伝いに「毘沙門天裏参道」がついています。10分程度で御料局三角点に到達できますが、この尾根筋には40~60メートル間隔で正体不明の境界標石が多数あります。

三角点標石の大きさは一辺14、地上高さ8センチメートルの角柱です。上面は隅切りがなく一画6センチメートルの+の刻印があり、×印ではありません。南面(樹林側)には「御料局 三角点」、北面(歩道側)には「補点」とそれぞれ行書体で刻字がありますが両面の「点」の字は「點」ではありません。このように他所で見られる御料局三角点とはかなり異質のものです。いつ設置されたものか不明ですが今後、類例の探索とともに調査したいと思っています。

この三角点の位置からは近傍の住宅地が望めます。またこの標石の東3メートルには中部電力のコンクリート杭があります。ケーブルの位置標示のためか黄色く塗られているので御料局三角点位置の目印になります。

御料局 犬山市桃山

名鉄「犬山」から木曽川の上流に向かって3キロメートルの地点に栗栖という集落があり、栗栖神社の鳥居をくぐり、まっすぐ進むと桃山遊歩道に入ります。15分程度で桃山山頂(地形図:犬山)に到達できますが、この間に御料局の境界標石(界標といいます)が2点あり麓の方は「界二四〇支」、その上の方は「界二四一」の刻字があり、いずれも宮印が刻印されています。山頂の御料局三角点標石は一辺15センチメートル、地上高さ30センチメートルの角柱で上面は隅切りがされ四隅が丸くなっており一画4センチメートルの×印があります。北面は「御料局 三角點」、南面は「補點」の刻字が見られます。

標高168メートルの桃山山頂からは日本ライン(木曽川)が望めます。栗栖集落の南には桃太郎の伝説で知られる桃太郎神社があります。神社の掲示板によれば「その後の桃太郎」として「鬼退治をしたのち、ある日近くの山に登り姿が消えたが、その山の形が桃のように見え村人は桃山と呼んだ」とのことです。

御料局 犬山市本宮山南

犬山市の東南、本宮山の南に御料局三角点が見られます。最寄り駅は名古屋鉄道小牧線「楽田」(がくでん、地形図「小牧」)です。地形図の北東角あたりにヒトツバタゴ(モクセイ科の喬木)自生地がありますが、その南の187標高点のところで、中部電力犬山変電所の裏山にあたります。西洞池(上池)の東から中部電力の送電線巡視路にそって尾根にあがり、15分程度で到達できます。

標石は一辺12センチメートル、地上高さ30、うち整形部17センチメートルの角柱で上面の角は隅切りがあり丸みを帯びており×印は南北、東西に向いています。側面の北西面には「御料局」「三角點」と、たて2行に南東面は「補點」と、たて1行の刻字があります。

御料局 大台ヶ原 三津河落山 (さんづこうちやま)

大台ケ原の山上駐車場から北へ名古屋岳、三津河落山(地形図:大台ヶ原山)がドライブウエイに沿ってつづいていますが、この辺りはかつて松浦武四郎が探訪したようで、松浦の同行者の名前が刻られた道標がところどころに見られます。名古屋岳の山頂からそのまま北へは道がなくなるので、手前60メートルほどのところで山頂を東(右)に巻きます。ドライブウエイが尾根筋に接する川上辻から50分程度で三津河落山に到達します。この山頂に御料局の測点が見られます。御料局の界標は近畿地方でも多数ありますが、わたしの探訪した御料局三角点、測点のなかでは最西端に位置します。

標石は一辺12センチメートル、地上高さ20、うち整形部15センチメートルの角柱で上面の角は隅切りがあり丸みを帯びており×印は南北、東西に向いています。側面の南西面には「御料局」「測点」と右から、たて2行に北東面は「第六号」と、たて1行の刻字があります。

御料局測点のすぐ西には道標があり一辺11センチメートル、地上高さ55センチメートルの角柱標石には南面にこの場所の地名「如来月」、東面に松浦武四郎の同行者「奥田利平」、西面には伊勢(三重)、大和(奈良)の県境を表す「國境」とあります。

宮三角點 瀬戸市鹿乗町

JR中央線「高蔵寺」から県道53号を東へ向かい、1キロメートルあまりで庄内川にかかる鹿乗橋(かのりはし、地形図:高蔵寺)をわたり、東南にすこし進むと国道155号と県道15号の分岐があります。県道の方を東へ600メートル進むと水野川にかかる大籔橋があります。それを渡ったところに県道から分かれて、南の森林に入る狭い山道があり、東へ20メートル先から薄暗い雑木林の中に入ります。急斜面ですが水野川よりの尾根を10分ほど登ったやや緩くなった斜面上に宮三角点が見つかります。

標石は一辺12.5センチメートル、地上高さ14センチメートルの角柱で、上面の角は隅切りがあり丸みを帯びており×印は南北、東西に向いています。側面の北西面(斜面下側)には「宮」を直径7センチメートル程度に丸くデフォルメしたマーク、南東面(斜面上側)は「三角補點」の刻字があり、上面の×印は一画5センチメートルあります。

三角点の周囲はツバキなど照葉樹で囲まれ、見通しは得られません。この三角点は森林管理局の台帳では瀬戸国有林にあり、点名は「岩割瀬」になっています。宮三角点は側面に「宮三角點」、裏面に等級が刻字されたものが多いのですが、このような宮マークと「三角補點」の刻字例は稀です。

このような位置に三角点を設置された理由がわかりませんが、この狭い急斜面の位置からは測量はされず、他所の既知点から前方交会法により位置決めを行なったのではないかと思われます。

宮三角點 知多半島美浜町

名古屋鉄道河和線終点の「河和」(こうわ、地形図:河和)から北西3キロメートルの地点に吉田池がありますが、さらに南へ600メートル入った、みかん畑の丘の上に宮三角点があります。この標石に隣接して四等三角点「池の上」、標高68.5メートルがあり点の記にも宮三角点の位置が表示されています。

標石は一辺15センチメートル、地上高さ40、うち整形部15センチメートルの花崗岩で上面の角は隅切りがあり丸みを帯びており×印は南北、東西に向いています。側面の北西面には「宮三角點」、南東面は「四等」の刻字があります。わたしが探訪したときは地元美浜町の展望台が工事中で標石周辺は資材置き場になっていました。

宮三角點 大府市共和町

JR東海道線「共和」の東北1.5キロメートルの地点(地形図:鳴海)、愛知用水の手前の畑地のなかに小高い丘が東西に2つあります。愛知用水寄りの西の丘は樹木が生い茂っていますが、宮三角点があるのは東の低い方で畑の延長になっており、みかんや柿の木も見られます。この位置は大府市ですが、すぐ北が名古屋市緑区で伊勢湾岸自動車道の名古屋南インターチェンジが間近に見えます。

標石は一辺16センチメートル、地上高54、うち整形部20センチメートルの角柱で上面の角は隅切りがあり丸みを帯びており×印があります。側面の北面には「宮三角點」、南面は「補點」の刻字があります。

この標石から北東500メートル、インターチェンジの手前に一等三角点「高根山」、標高55.1メートルのある丘があります。初期の点の記によると、もともとこの一等三角点の土地の所有者は御料局になっており、このあたり一帯が御料地であったことがわかります。

宮三角點 岐阜城天守閣前

岐阜、金華山(地形図:岐阜北部)の岐阜城天守閣入り口前のベンチ西側に宮三角点あります。標石は一辺15センチメートル、地上高さ13センチメートルの角柱で下部はコンクリートに埋没しています。上面の角は隅切りがあり丸みを帯びており、×印は南北、東西に向いています。側面の北東面には「宮三角點」(「角」の下半分からは埋没)、南西面は「補點」(「點」の下半分は埋没)の刻字があります。

1567年(永禄10)織田信長が斉藤龍興(道三の孫)を破り、それまでの稲葉城の名称を岐阜城に改めました。江戸時代には廃城になり1910年(明治43)に一部復活しましたが、天守閣が再建されたのは1956年(昭和31)で、その後、大改修工事が1997(平成9)に行われています。

山梨県恩賜林

山梨県では県下の御料地の大部分をしめる入会御料地が1911年(明治44)、恩賜林として同県に下賜されました。この事績を記念して1919年(大正8)謝恩碑が甲府城址(舞鶴城公園、地形図:甲府)本丸広場南西端に建立されました。総高さが30メートルある巨大なオベリスク型の塔で東山梨郡(現甲州市)萩原山恩賜林内の花崗岩が使用され、台座東面には山縣有朋の揮毫で「謝恩碑」、当時の山梨県知事山脇春樹により陛下に感謝する碑文が刻まれています。城址内には恩賜林記念館もあり、催し会場につかわれています。恩賜林は山梨県の県有財産ですが、防火や界標など標識の維持は山梨県恩賜林保護組合が行っています。恩賜林は山梨県の森林面積の36パーセント、12.2万ヘクタールにあたります。

御料林から山梨県の恩賜林になってからも、境界測量は行われたようで、当時の界標が残存しています。「恩」の刻字があるのが特徴です。富士五湖のひとつ精進湖(地形図:精進湖)の西側にも当時の界標が残っています。パノラマ台下のバス停から、つづら折りの登山道を登り、ついで三方分山からつづく主尾根の登山道を南に向かってすすむと、パノラマ台の直前で西の尾根筋に向かう分岐(標高点1328)があり道標が立っていますが、ここから20メートル北(手前)、登山道から3メートル程度、東の斜面上に恩賜林の界標が見られます。一辺12、地上高さ30センチメートルの火山岩と思われる角柱で南面には「恩」、北面には「乙六三八」の刻字があり、上面は+の刻印があるようですが痕跡程度でよくわかりません。初めてみる恩賜林の界標でした。恩賜林の界標は自然石に「恩」と彫られたものもあるようです。

京都泉涌寺恵日山 宮内省三角補点

京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ、地形図:京都東南部)の寺域には鎌倉時代から幕末にいたる歴代天皇、皇族の陵墓があり宮内庁が管理しています。泉涌寺南東端の雲龍院から東へ後光厳天皇分骨所をはじめとする陵墓と寺院墓地を廻り込み、なだらかで広い尾根道を主稜線まで登りきり、南西に向かうと東山三十六峰のひとつ恵日山に到達します。国土地理院の地形図には標高点192メートルの表示があります。このあたり旧宮内省の界標が多数ありますが、民間の竹やぶとの境界に沿った山道の最高所から、西へ雑木林を30~40メートルはいったところに「三角補点」が見られます。

一辺15センチメートル、地上高さ10センチメートルの標石で、上辺には一画7センチメートルの+刻印、隅切りがあります。すこし掘り下げてみると南面は「宮内省」、北面には「三角補点」の刻字が見られます。周囲は雑木で展望は得られません。

このあたりの陵墓を含む地形は1928年(昭和3)、御料局の後続組織である帝室林野局により測量され、その成果は二千五百分の一「泉山陵墓総圖」として発行されていますが、「三角補点」は載っていません。[宮内庁書陵部陵墓課:陵墓地形図集成「泉山陵墓総圖」学生社 1999 p144(四千分一縮小印刷)]

三角補点設置の目的は、分散された多くの陵墓が存在する泉山御料地の全体を測量するためと思われます。近傍で既存の陸地測量部三角点(たとえば稲荷山の東「西野山」)と連系され、この補点を基準として多角測量で距離、角度を求め、陵墓各所にある界標の位置を正確に求めたのではないかと考えられます。

全国にある陵墓の本格的な測量は大正中期から昭和初期にかけて測量され、地形図が作成されました。陵墓地形図には経緯度ではなく原点からの縦横の距離を座標として表示してあります。京都市内には多数の陵墓がありますが、京都市北区にある陸地測量部二等三角点「鷹峰」を縦横原点としています。ちなみに奈良県の場合は同三等「畝傍山」になっています。

御料局の境界標識

御料局の境界標石は「界標」とよばれ、その附属標として「探求標」と「指導標」が1899年(明治32)の御料地境界踏査規程(御料局長達第六五二二號)に定められており「宮」の記号が刻印されています。「宮」のウ冠は広く丸みを帯びてデフォルメされており、宮内省を意味します。「宮」の刻印された方が御料林側になり、反対側が民有林などになり標識番号が刻字されました。境界測量によって設けられた界標は当初は木柱(木標)が多く使用されたようですが、1914年(大正3)以降は界標20点ごとに3点の標石を用い、さらに重要な境界は全部、標石としました。[帝室林野局:帝室林野局五十年史 1939 p646]

「宮」表示の界標については陵墓や御所、離宮など旧宮内省所有地にも多数見られ、現在も境界標識として使用されているものもあります。東京都豊島区目白の学習院大学にも残存しています。[諸星真澄:学習院目白校地の境界石標 「学習院大学史料館紀要」16号 学習院大学史料館 2010 p161-176]

林野庁による界標の説明には「御料林時代の石標は、山印ではなく宮印が刻んである。旧御料林でも新しく埋設されるものはすべて山印がつけられる」とあります。[林野庁:図説国有林の境界 地球出版 1965 p72]

 

塩見岳の御料局界標

長野県大鹿町、鳥倉林道の塩見岳登山口から三伏峠に向かう中間、通称「豊口山のコル」(地形図:塩見岳)でみかけました。南面は宮のマーク、北面は「界乙四三〇」と読めました。塩見岳西峰山頂には国土地理院所管の二等三角点「塩見山」(伊那市長谷浦)とともに御料局三角点(四等)が残置されています。

八ヶ岳の御料局界標

八ヶ岳の縦走路には多くの御料局境界標識が見られます。刻印、刻字のある標柱や岩盤の上面を平らにして×を刻印したものなどあります。これらは赤ペンキがスプレーされ、現在も森林管理局の界標になっているようです。

写真の事例では縞枯山と北横岳北峰(地形図:蓼科)の標柱は旧宮内省を表す「宮」の字をデフォルメしたものと反対側の面には「界己二三七」(縞枯山の例)などと番号が刻字されています。また北横岳登山道でみかけた自然石は16センチメートル角を平に削り×印が彫られています。この自然石のような例は三角点とされた可能性もあります。[御料局:御料地測量規程 第一二一七號 1894 第壹圖式 大阪市立中央図書館蔵]

帝室林野局木曽支局庁舎

JR「木曽福島」から木曽川を越え、北東へ1.5キロメートルのところに旧帝室林野局木曽支局(地形図:木曽福島)の庁舎が残存しています。1927年(昭和2)5月に木曽福島町の大火により、庁舎は焼失しましたが、同年末には再建されています。2004年(平成16)に、それまで中部森林管理局森林技術第一センターとして利用されていた庁舎が閉鎖されましたが、2014年(平成26)には木曽町により改修復元され「御料館」として公開されています。

現在は資料展示と地域の人たちに活用されています。測量に関する展示品は少ないですが、1903年(明治36)当時の御料林境界杭がありました。朽ちはてた木杭に墨で「明治三十六年境界標(西界戊五九六号)」とありました。撤去後に根元を削って記されたと思われます。


■御料地の境界標識
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